秦の始皇帝――始皇帝の死【千古英雄伝】

 

秦の始皇帝は荘襄王の子で、姓は嬴、名は政で、荘襄王の跡を継いで秦王に即位しました。始皇帝は即位後、26年間にわたる東西遠征の末、6か国を征服し、天下を統一しました。

始皇帝の36 年(紀元前 211 年)、火星が心臓に侵入する「天象」が現れ、この天体現象は始皇帝にとって災難を象徴します。この時、東郡に隕石が落ち、着地すると石塊となり、誰かがその石に「始皇帝が崩御し、天下は分断される」という文を彫りました。

その年の秋、関東からの使者が夜、華陰平舒路(今の陝西省華山の北)を歩いていたところ、翡翠の一片を持った男に出会い、その男が使者を呼び止め、「私の代わりに、水神にこの翡翠を捧げてください」と言うのです。

その男が加えて言うには、

「今年、祖の龍が死ぬ」(祖は始であり、龍は国王を表し、祖の龍の死は始皇帝の死が近づいていることを意味します) 

使者は男に、「理由はなぜですか?」

と尋ねたのですが、気づくと、男は翡翠を残して忽然と姿を消していたのです。

使者は宮廷に戻り、この翡翠の玉を献上し、秦の始皇帝にこの話を報告しました。これを聞いた秦の始皇帝は長い間沈黙していましたが、

「山の幽霊は一年に何が起こるかしか知りません」と言いました。

もう秋であり、今年はもう残り日が少ないから、心配しないと言ったのです。
こんなことは必ず起きる訳ではないことを意味しています。

彼は朝礼の最後に、「祖は人々の祖先である」と解釈し、祖先は死んだ人であるため、「祖先の龍の死」は、当然彼とは何の関係もありませんと、解釈したのです。

 

それから皇帝は王府の人に、この翡翠の破片を検査するよう命じたところ、意外なことに、この翡翠の破片は、始皇帝が始皇28年に、川を渡る巡察の際に、誤って川に落とした翡翠の破片だったのです。

始皇帝の始皇37年目(紀元前210年)10月の癸醜(みずのとしこ)の日、始皇帝は遊覧に出かけたのです。始皇帝は海神と戦う夢を見て、その夢を占う医師に夢を解釈してほしいと願い出たところ、医師は「水神はもともと目に見えず、大きな魚と水龍を使って探偵する」と言いました。

「今、皇帝は自分の身体に思慮深く神に敬意を払っていますが、そのような邪悪な神が現れたら、彼はそれを取り除くべきです。そうすれば、本当の善神が来るでしょう」 

そこで始皇帝は、海の中を捜査するように命じました。自ら巨大な魚を狩るために海に行き、弓とクロスボウを持ってきて、大きな魚が出てくるのを待って撃ったのですが、蘭渓から栄城山まで、全員が大きな魚を見つけられませんでした。彼は志府(現在の山東省福山県北東部)に到着したとき、大きな魚が出たためにそれを撃ちました。

平原津へ西に航海中、始皇帝は体調を崩し、日に日に病状は重くなり、7月丙寅の日、始皇帝は砂丘の台座(現在の河北省平祥県北東)で亡くなられたのです。

《史記‧秦始皇本紀》より

 

 

史然