連載:高智晟著『神とともに戦う』
連載:高智晟著『神とともに戦う』
中国の闇はあまりにも多すぎる。とりわけ制度によって公民が受ける被害は深刻だ。だが、これは断じて悲哀の全てではない。我々の悲哀とはすなわち、公式・非...
私が弁護士となって最初に引き受けたのは、無償の裁判であった。その後、毎年3分の1の精力は、貧しい人々のため無償の裁判へと注いだ。7年来、この点は常に一...
強制立ち退き裁判は完敗! 私が手がけた強制立ち退きの裁判は100戦100敗、つまり100%の負けである。この数字は政府の公式統計ではないので、絶対に正確だと...
中国は、法治国家とは異なる。どんな小さな案件であれ、あらゆる案件が最終的に浮き彫りにするのは、あまりにも深い制度上の問題だ。これは紛れもない、しか...
我が家は「船」、夫は「船長」 陕北油田の投資者を弁護した北京の弁護士・朱久虎が逮捕された。高智晟はその知らせを聞くや否や、彼を助けようと陝西...
まるで「壁に耳あり障子に目あり」であった。そのため、夫が家に不在の時、耿和は夜でも通りに面した部屋の明かりをつけようともせず、子どもにも小声で話す...
90年の8月1日、2人は結婚証明書を受け取ったが、その後は別れて暮らすこと4年。94年になって、耿和は何とか高智晟の戸籍をウルムチへ移し、ウルムチのセメン...
(訳者注)本項は高智晟 弁護士の妻・耿和氏の口述をもとに書かれているため、前項までの第一人称体である「私(高弁護士)」とは異なった文体になっています。
私たち7人の子どものすべてが、母の精神世界にとっての中心だった。たとえ今わの際になっても、わが子と孫たちの名を繰り返し呼び続けた。息を引き取るまで、...
【大紀元日本1月13日】貧しい人々を支えた母の偉業のうち、最も忘れ難く、いまだ記憶に新しいのは、そのうちの2つである。1つは、寒風が突き刺すような真冬の...
【大紀元日本1月5日】母は、有徳の人であった。この母の功徳ぶりは、私の認識やこの手中の筆が決めるものではないが、いずれにせよ、母が徳の力で積み上げて...
【大紀元日本12月26日】中国北西部、黄土高原の厳しい冬は、その年初めての強い北風とともに、規則正しくやって来る。他の家の子たちが家にこもっている頃、...
母は、先々まで見通すことのできる人だった。このおかげで、今日の私たちが存在する、あらゆる基礎が築けた。母は、長男と姉以外、すべての子を学校に行かせ...
1975年の6月22日、周囲の助けのもと、私の父はようやく40元相当の棺を手に入れた。大きな体を丸めて41年生きた父は、亡くなってもなお体を折り曲げ、つけで買...
2005年3月6日午後4時24分、私の母は、限りなく愛したこの世を去って行った。我々兄弟姉妹7人にとって、これは母のいる時代の終わりであり、母のいない時代の...
私は、母が私を生み育ててくれた所へと戻って来た。この洞窟、我が家、そして山道、目にするものすべてが私を追憶へといざなう。
確かあれは、夏の日の昼ごろだった。私は母について水を汲みに行った。私たちの村の水汲み場は崖の中ほどにある。
「いつかは腹いっぱい、飯を食いたい」。これこそ、父が果たせなかった悲願であった。
旧暦の12月27日、泣きくれて目の腫れも引かない母は、私を連れて出かけた。我が家のだれ一人として、母の行き先を聞こうとはしない。
春節、それは農村地区で特別な意義があり、中国の農村で最大の祭りでもある。それはまた、農村の住民にとって最も大切な祭りでもあるのだ。
弁護士試験は、極めて苦しいものだった。中国には、「大禹は治水という大事業を成し遂げるまで、決して家に帰らなかった」という言い伝えがある。
我が家の生活も、96年を境に改善の兆しが見え始めた。私は94年に独学で専門学校を卒業し、95年に弁護士資格を取得した。そして96年には弁護士事務所を開いた。
それにしても、これはとんでもない道中だった。延安から綏徳(すいとく)まで少なくとも270キロあるが、その日の夜には着いた。
私は家路に着いた。その初日、黄陵まで一気に40キロも歩いた。何も口にしていなかったので、ひどくお腹が空いていた。ある食堂を通りがかると、中では油条(...
私は1964年、陕西省北部の農村に生まれた。それは中国人誰もが貧しかった時代。なかでも我が家は特に貧乏だった。記憶の中の父は、オンドルの上でいつも「い...
高智晟(こう・ちせい)。彼こそ中国の有名な人権派弁護士だ。また、中国全土で吹き荒れる権利を守る戦いの中心人物でもある。金も権力もない、しかし助けを...