【党文化の解体】第5章(10)

【大紀元日本9月23日】

3.党の話を聴け、党について行け

2)「党の話を聴く」は人々に何をもたらしたのか

暦次の政治運動と洗脳を経歴した今日の中国人は、すべてと言っていいぐらい中共に対して本能的恐怖を感じている。党の話を聴き、党について行くということについてすでに慣れている。多くの人は「共産党と対抗するのは絶対良い結末がない」を持って他人を戒める。それでは、「党の話を聴け、党について行け」は一体人々に何をもたらしたのだろうか。

党の話を聴いた結果、人々が独立して思考する権力が奪われた。十何億の中国人は唯一の「党の脳」しか持たなくなった。党が言われる通りになり、党が決定するものしか執行できない。独立的思考能力はその民族の発展の重要な条件であるが、「党の話しを聞く」ことしかできない民族は一体どこのまで発展して行けるのだろうか。

問題の更に恐ろしいところは、中共は通常の意味での政党ではなく、中共は闘争を楽しみにし、天・地と戦い、人をやっつけ人殺しを楽しみにする反動邪教集団である。如何なる規則も講じない。如何なる道徳上のボーダーラインも引かない。変幻窮まりないのである。中共の周期的政治迫害の前に、その最も忠実した党徒であっても迫害される運命も免れないのである。

共産党歴代の要人(イラスト・大紀元)

劉少奇は中共の第7次党大会で確立された党内第2号人物である。延安で初めて「毛沢東思想」を提起した人である。40年代に毛沢東のためにその政敵を打倒した重要な助け人である。文革大革命発動時の国家主席であったにも拘らず、「裏切り者」「間諜の工作員」「労働者を売る敵」であると決め付けられ、3年間に亘る残酷な迫害を蒙った後悲惨に死んでしまう。死んだ時はもはや人の形を持たず、髪毛は60センチまでも伸びていた。

死んだときの劉少奇、死亡通知書に書かれたのは、氏名:劉衛黄、職業:無職、死因:病死(イラスト・大紀元)

1955年中共が授与した所謂「十大元帥(総大将)」のうち、朱徳氏は当時すでに高齢で、1949年以後は政界から引退したため、政治闘争の中に巻き込まれずに済んだ。羅栄桓氏は早くなくなり、その他の8人は、政治闘争の中で免れた人はいなかった。彭徳懐氏は「反革命軍事集団」の首領と決め付けられ、文革発動以来1971年までの間、公開批判された回数は200回以上及ぶ。死んだとき遺骨箱に「王川 男」の3文字が書かれている。陳毅、徐向前、聂栄臻、葉剣英の四氏は「二月兵変(※1)」を企てていると誹謗された。賀龍氏は批判闘争に耐えられず死んでしまった。林彪氏はクーデターに失敗し飛行機で逃亡中にモンゴル共和国のウンドゥルハーンで墜落死。死んだ後の林彪が大規模な掃討を受けた。

文化大革命開始時に「革命」が最も徹底していた「紅衛兵小将」たちは、利用される価値がなくなったその2年後、「山へ行き、村へ行き、貧農の中で再教育」を受けさせられた。林彪の「五七一プロジェクト紀要」の中で一語で「天機を破り」:「青年知識分子が山へ行き、村へ行き、貧農の中で再教育を受けさせるとは、形を変えた労働改造だ」。

青年知識分子が山へ行き、村へ行き、貧下中農再教育を受けさせられた(イラスト・大紀元)

暦次の政治運動の中で中共によって蹂躙され迫害された人々は、本当に「党に反目した」人だったのであろうか。

1957年反右派闘争の中で批判され、流刑された多くの知識人は中共建政前では左派文人であり、中共に同情し、支持し、更に中共が政権の収奪のために汗馬の労苦を立てた人である。風刺的なことに、これら当時中共に対して無限な希望を持ち、かつて国民党統制区で命かけで中共のために奔走し、最も力を出してきた人たち、正に57年に一番最初に右派分子として打倒された人となり、しかも当時よく手柄を立てた人ほど、受けた迫害が残酷だったのである。

民主党派の章乃器、章伯釣、羅隆基、储安平、王造時、教育家の蒋南翔、江隆基、作家の巴金、艾青、田漢、丁玲、趙樹理、羅広斌、康濯、楊沫、学者の楊献珍、剪伯賛、呂振羽、梁思成、文芸界の馬連良、奚嘯伯、周信芳、尚小雲、厳鳳英などの人たちはみんな迫害を受けた。これらの人たちはすでに共産党員であったり、或いはすでに思想改造を受け、共産党に対して忠誠を尽くすことを誓い、しかも迫害を受けた時にすでに中共のために多い貢献をなしたこの人たち、残酷な迫害により命を落としたり、身体障害を残したり、僅かの人が命をつないだが、払拭できない精神的傷が残された。

1956年11月、文化部と中国戯劇家協会とが、上海で「蓋叫天(※2)舞台生活60周年記念集会」を共同開催した。田漢は文化部を代表して蓋叫天に表彰状を与え、「卓越な演劇家蓋叫天先生に学べ」を題する講演を行った。蓋叫天の答辞挨拶の中で、「命を授けたのは父母であるが、心の心友となるのは共産党だ」と感激したようだ。1966年、文化大革命が爆発した後、蓋叫天は一群の暴徒にずるずる引っ張られて街を引き回して見せしめにしたとき殴られ足が骨折し、その後糞尿車に乗せられ引き回しが続いた。当時還暦を迎える蓋叫天はこれほど酷い侮蔑に耐えられず、何回かあがこうとしたが、毎回毎回糞尿車へ押さえ込まれた。大江南北にその名を売れた名武生(※3)はこのようにして衆人環視の中苦痛をなめされ、その後悲惨な晩年を過した後死んでしまった。

作家老舎は政治的要求に服従し、一貫して党について行く態度を取った。1949年以後、「龍須溝」を始め、「春華秋実」、「青年突出隊」、「紅大院」、「一家代表」まで多くの脚本を書き、中共政権のために所謂「功績」を讃えた。1966年8月23日、文聯主席の要職に務める老舎は紅衛兵に引っ張られ街を引き回しされた。同時に引き回されたのは作家の蕭軍、駱賓基、芸術者旬慧生などの人たち。彼らは全員陰陽頭に剃られて、首に「黒幇分子」、「反動学術権威」、「牛鬼蛇神(妖怪変化)」の看板を掛けられ、頭に墨を塗り、焼き払った舞台衣装、文物、書籍の火の山の前に跪いて、「革命の火」の洗礼を強いられた。同時に道具や金属がついたベルトで殴られた。老舎は市文聯に連れ帰ったが、しかし彼を待ち受けたのは更なる残虐である。老舎は党を愛し、社会主義を愛すると大声で叫ぶが、返ってきたのは狂気限りの暴虐である。翌日老舎は太平湖で自決した。

※1:二月兵変:1966年、文革発動直前の党内政治闘争の中でっち上げた事件。

※2:蓋叫天(1888~1971)、中国の京劇史上に名を残す錚々たる名優。

※3:武生とは、京劇の中で、セリフは少なく、アクション(立ち回り)を専門とする男性役者の称呼。

(続く)