≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(25)「生まれたばかりの弟の死」

11月に入ってから、急に冷え込み始めました。日中の時間も次第に短くなってきました。ソ連軍がしょっちゅう家に押し入ってきて、女性を連れて行くという噂を耳にしました。ある人などは、ソ連軍に連れて行かれないように顔を黒く塗り、男か女か分らなくしました。

 ある日、母は夜遅くに仕事が終わって家にもどり、休もうとしました。そのとき、誰かが玄関の戸を押し開けようとする音がしたかと思うと、まだ私たちがいったいどうしたことかわからないうちに、2人の若いソ連兵みたいな人が肩に銃をかついで押し入ってきました。私たちは驚いて母にすがりつきました。ソ連兵は母の腕を掴むと、オンドルから引きずりおろそうとしました。私はこの様子を見ると、弟たちに母にしっかりしがみついておくように言い、大声で人を呼びました。

 私が叫ぶと、兵士の一人は玄関の外をキョロキョロと見ました。私が叫び続けているまさにそのとき、母はおなかが突然痛んで叫び出しました。母の腕を掴んでいた兵士は、母が今にも子供が生まれそうな妊婦だということが分って、その腕を放しました。そして、別の兵士と何やら話をして去っていきました。

 ソ連軍が去ってほっとしましたが、落ち着いてはいられませんでした。母の痛みが尋常ではなかったからです。私は上の弟に母のそばにいるよう言いつけると、すぐに人を呼びに行きました。でも、誰を呼んだらいいのかしら?すでに夜は更けていて、私はとっさに雇ってくれている中国人家庭の娘さんのお婆さんのことが思い当たりました。

 その家に行ってみると、すでに明かりは消えていましたが、私はそんなことはかまっておられず、力いっぱいドアを叩きました。お婆さんが出てきてくれましたが、ことばが通じないため、ただその手をとって家へ戻ろうとしました。お婆さんは私の慌てている様子を見て、母に赤ちゃんが生まれそうだというのがわかったのでしょう。急いで中に戻ると何か持って出てきました。そして、私の手をとって急いで私の家に駆けつけてくれました。

 家に戻ってみると、ちょうど赤ちゃんが生まれたところで、弟の「一」が母のそばで赤ちゃんを受けていました。お婆さんはへその緒をてきぱきと処理すると、母が準備しておいた衣で赤ちゃんを拭いてからくるみました。生まれたばかりの赤ちゃんは弟で、寒さで震えているようでした。お婆さんは、身振りで私に、火を起こしてお湯を沸かすように言いました。部屋の中は寒かったのですが、幸い、オンドルの上は暖かかったのです。

 お婆さんは弟に産湯をつからせた後、自分の家に戻って小さな布団を持ってくると、弟にかけてくれました。それ以来、お婆さんは何回か食べるものを持ってきてくれました。しかし、母には仕事に行かせませんでした。そこで、私が上の弟を連れて仕事をしに行ったのですが、お婆さんは私たちを帰しました。

 それ以来、私たちは働くところがなくなり、食べていけなくなりました。中国人の習慣では、女性は子供を産んで一か月しないと、仕事に出ることができません。それで、私たち一家五人は、ただひもじい思いをするしかありませんでした。

 私ができる唯一のことといったら、小川に行って母のために洗たくをし、生まれた弟のためにおしめを洗うことぐらいでした。小川はすでに凍っていてとても冷たかったのですが、しばらくすると、冷たさを感じなくなりました。手が麻痺して感覚がなくなったのです。

 数日続けて、私はひとりで小川のほとりにやってきて、おしめを洗いました。小川の氷は日に日に厚く、広くなり、天気もますます冷え込んできました。今、私たちは無一文で、母はやむなくアクセサリーの類を取り出して、人に頼んで少しばかりの食糧と交換してもらいました。最後には、とても大切にしていた腕時計も売って、一家の生存を維持しました。しかし、母は食べ物を口にすることがなく、いつも私たちに食べさせてくれました。そのため、生まれた弟に乳をやることができませんでした。

弟は生まれてきたばかりの時は

弟は生まれてきたばかりの時は、元気よく泣いていたのですが、次第に泣き声が小さくなり、力もなくなりました。上の弟たちはその弟がとてもお気に入りで、いつもそばに集まって見ていました。ときには、大根の漬物のようなものを口に持っていって嘗めさせたりもしました。

 弟は食べるものも飲むものもなく、当然、私が川へおしめを洗いに行く回数も減りました。結局、五日目の午前、弟は二度と泣き声をあげることがなくなりました。母は辛そうに弟をお婆さんが持ってきてくれた布団にくるみました。そして、私にマーホア(揚げ菓子)を一本だけ買ってこさせると、それを布団の中に包み込みました。弟はひもじくて死んだので、来世はひもじい思いをしなくてすむように、このマーホアをあげましょう、というのです。

 弟は生まれてから名前もつけられないうちに他界してしまいました。私は悲しくて泣き、3人の弟も同様に泣いていました。母は目に涙を含み、長いこと何も話さず、何か考えている様子でした。私は母が気丈にも泣いていないのを見て、私も泣くのをやめました。母は私を見ると、北側に住んでいる元開拓団の大西おじいさんを呼びに行かせ、亡くなった弟を王家村の北山に埋葬してくれるようお願いしました。

 大西おじさんが亡くなった弟を抱いていくと、部屋の中は何かが欠けたようでした。ここ数日、弟が生まれてからというもの、上の弟たちは喜んで、生まれたばかりの弟の周りに集まって見ていました。今日、その弟が亡くなり、家の中はひっそりとして一際寂しくなりました。外は小雪がチラつき、いっそう物悲しく感じられました。

 この時、私は本当に父、祖母、姉に会いたくなりました。もし弟が死ななければ、私たち兄弟は6人となり、それに父母と祖母を入れて全部で9人家族になるはずでした。なんと賑やかなことでしょうか。今、弟が死に、父もどこにいるか分りません。祖母とお姉さんは、私たちがここで凍えて飢えているのを知っているでしょうか。

 数か月前、私たちは新年が来るのを楽しみにしていました。東京に戻って、祖母と一緒に新年を過ごし、おいしいものを食べようと。帰る途中で母に子供が生まれたらどうしよう、などということまで心配していました。しかし今、果たして日本に帰ることなどできるのでしょうか。残酷な現実に、私はもはや、日本に戻るなどという贅沢な望みを持つことはできず、何か食べて生き続けられるだけで満足でした。

 食べ物を手に入れるあてはありませんし、天気は日に日に冷え込んできました。食べるものはおろか、冬を越す綿入れの服さえありませんでした。祖母でさえ、これほど酷い状況になるとは思っても見なかったでしょう。今私たち一家は本当に生き続けていくことすら危うくなってしまいました。私たちの手の中には、かつて母が話してくれた物語に出てきた、命を繋ぐあの「鰹節」はなかったのです。

(つづく)