THE EPOCH TIMES

長孫皇后-名君に深く愛された、真に美しい妻

2010年08月18日 07時00分
 【大紀元日本8月17日】中国の歴史で名君の中の名君と称えられる唐の皇帝・太宗に、一生敬愛された一人の女性がいた。後に「良妻賢母」の手本とされる太宗の皇后・長孫(ちょうそん)である。

 長孫皇后が36歳の若さで世を去ったのち、悲しみに暮れる太宗は再び新たな皇后を迎えることはなかった。太宗は、皇后が葬られた昭陵(しょうりょう、長孫皇后の陵墓)を常に眺めることができる塔の建造を家臣に命じ、その塔に登っては昭陵を眺めて涙を流したという。数え切れないほどの后妃に囲まれていた皇帝がこれほど愛した長孫皇后とは、どのような人物だったのだろうか?

 婦女の道を守った皇后

 歴史の資料によれば、長孫皇后は傾国の美女というほどではなかったという。しかし中国史上もっとも良い政治とされる※「貞観の治」(じょうがんのち)を人徳と才智を兼ね備えた皇后が支えた功績は大きく、太宗は重大な国事の決定など治世について皇后の意見をよく参考にしたという。太宗が治国のことについて皇后に尋ねると、「雌鶏が夜明けを告げると、家は窮乏します」と言って答えようとしなかった。太宗がこれは乾政(女性が政治に口出しすること)には当たらないからと何度も説明すると、皇后はやっと自分の考えを言い出したという。皇后は、婦人の本分を厳しく守りながら太宗を支えた。

 質素な生活

 長孫皇后は、生活は質素で、華美な衣服は身に着けなかったという。臨終に際しても副葬品は金銀宝石の代わりに木と瓦にすると遺言した。貴い身分でありながら富貴にこだわらない皇后の品行は、千古に一人のものであるに違いない。

 寛容で人徳のある皇后

 度量の広い皇后は、太宗の子を産んだ官女が難産で亡くなると、その子を自分が腹を痛めた子のように育て、また別の妃嬪(きひん、身分の高い女官)が病気になった時には、自分の薬を与えた。このような皇后の仁徳に皆が感服したという。皇后が治めていた時の内廷は、皇帝の寵愛を競いあった歴代のものとは違い、「風平浪静」(平穏無事なこと)であったため、太宗が一心に国家の大事に専念することができたと言われている。

 柔を持って剛を制す、知恵のある皇后

 太宗には、癇癪を起こした太宗を二百回余りも諌めた、直諫で有名な魏徴(ぎちょう)という臣下がいた。

 ある日、魏徴の直諫に憤慨した太宗は皇后のもとに来て、「いつか魏徴を殺してやる」と話した。それを聞いた皇后は部屋に入り、朝服(ちょうふく、皇族以下有位の官吏が朝廷に出仕する際に着た公服)に着替え、ひざまずいて太宗を祝った。その行動に驚いた太宗が理由を尋ねると、「史書に、『主賢臣実』という言葉がございます。それは、賢明な君主があってはじめて、忠実な臣下がいるということを指します。魏徴が死を覚悟して陛下に直諫するというのは、陛下に忠実な証拠です。彼がこのように大胆であることは、陛下が賢明な君主であることを意味しているのではないでしょうか。我が国にとってもこれほど幸運なことがあるでしょうか。祝賀しなくてはならないものです」と述べた。太宗は皇后の話に心を静め、怒りをおさめた。一人の忠臣の命が、皇后の知恵により救われた。

 長孫皇后は優雅で知恵があり、人徳と寛容を兼ね備えた女性である。徳を重んじ、修養を修めたことによって生まれるのが「消えることない真の美しさ」であると、皇后は私たちに教えてくれる。

 ※貞観の治:中国・唐(618年~907年)の第2代皇帝・太宗李世民の治世、貞観(元年~23年)時代(627年~649年)の政治。

(翻訳編集・柳小明)


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