THE EPOCH TIMES

【新紀元連載】重慶事件 周永康、苛酷な官吏 6 前半

2012年04月25日 10時49分
 【大紀元日本4月25日】王立軍の亡命騒ぎおよび薄煕来の失脚によって、今やそのバックにいる周永康にスポットが当たっている。周が公安部長兼政法(公安、司法)委書記に就任中、中国の社会治安が急激に悪化し、犯罪組織が横行した。政法委が実際、江沢民と周永康の勢力下に置かれ、今日の中国で苛酷な官吏が恣意に国民を虐げる政府機関となった。

 周永康は江沢民との姻戚関係を利用し、出世街道をひた走る。中国政界では周永康を言い出すとその大部分は、「周永康? 江沢民の手先に過ぎない。頭が悪く、何の謀略もないのに、ただ姻戚関係で出世しただけだ」と鼻先で笑われている。彼の部下でさえ、心では周を見下しているという。

 周永康は、1942年12月に江蘇省無錫市で生まれた。70歳を迎える周は今期の指導部交代で中央政法委トップの座から引退する予定だ。しかし、王立軍事件によって薄煕来と共に、秘密裏に習近平を引き下ろす計画が米国側に暴露されたため、人々に注目されることとなった。

好色家の周永康、前妻を殺害

 周永康は1966年9月に北京石油学院探査学科を卒業した後、現場で苦労を好まず学校に残り配置転換を待っていた。しかし1年後、やむを得ず地質隊の実習生として大慶油田に派遣された。周は大学生との肩書きとごますり上手によって、41歳の若さで遼河石油探査局長、遼寧省盤錦市委副書記、後に市長になった。さらに1985年に石油工業部副部長、1988年に中国石油(ペトロチャイナ)の副総経理、後に総経理になり、政府直轄の国営企業の高官になった。周永康が中国の石油分野を管轄した13年間、石油部門は最も腐敗した国家機関となった。周も現地風俗店の常連客として堕落を極めた生活を続けた。

 1998年3月、国務院は国土資源部を創立し、56歳の周を初代部長に任命した。1年後、周は四川省トップとなる省共産党委員会書記に赴任した。あるマスコミ関係者が、周は土地売買で出世の道を開けたと暴露した。つまり、周は大量の土地売買で秘密資金を設け、13億元(約166億円相当)の賄賂を使って四川省トップの座を手に入れたという。

 四川省書記在任中の1999年から2002年まで、好色家の周は、何度も周囲の職員やホテルの女性従業員を強姦したが、自分の権力でこの悪行を隠蔽し続けた。周の前妻がこのような汚い品行に耐えられず周と別居した。そして仲がよかった元中共副主席・曽慶紅の紹介によって、周が江沢民の姪と交際を始めた。まもなく、周の前妻は妙な交通事故に遭い死亡した。周永康は直ちに江の姪と結婚した。ちまたでは周永康が江沢民の姪と結婚するために前妻を殺害したのでは、とささやかれている。周は江の姪婿との身分であることから、常に自分が「江主席の人」と自称した。江沢民の影響力で周は異例のスピード出世を遂げた。

言論の自由を抹殺、民衆を弾圧

 当時周永康が四川で恣意にマスコミを踏みにじった。2000年、周は民主活動家・黄_qii_の「天網」サイトを閉鎖した。黄には懲役5年の判決を言い渡し、初めて中国でインターネット弾圧を行った。2001年、地方紙・天府早報は、タイピングミスでトップ報道の題名「チベット自治区成立50周年を熱烈に慶祝」の「成立」が「独立」になってしまった。周の指示で強制的に停刊された。同年、成都市大手日刊紙・成都商報が事実に基づき、「県委員会書記が車で歩行者をはね、死亡させた後、逃走」記事を出したが、周の怒りを買った。周はこれが政府の権威を挑発する行為だと考え、四川省委員会の宣伝部に直送した書簡で、当局は「絶えず正確な世論を引導しねばならぬ」と要求した。その結果、成都商報は批判を浴びられ、記事の記者・陳清は即時解雇された。

 2002年、華西都市報は宋祖英(江沢民の愛人)を批判する記事を載せた。周が激怒し、新聞社編集長の謝罪を強い、報道記者を解雇した。周が四川省を管轄した3年の間、四川省マスコミの言論自由はほぼなくなった。

 さらに、四川省書記就任中の周は、6回にわたって民衆に向けて発砲事件を起こし、多くの血が流れた。その中の四川省南充地域の流血事件では公安部隊が発砲し、300人余りを射殺した。また、周は法輪功学習者に対し、何回も大規模な迫害を執行した。当時四川省は迫害が最も深刻で、虐殺された法輪功学習者の数が最も多い地域の一つであった。

公安部に忍び入り、孟建柱を操縦

 周永康は、江沢民と姻戚関係を結んだ途端、中央政治局常務委員、兼中央書記処書記に出世した。党内の官位だけで満足せず、実権を掌握させるため、江沢民が公安部部長・賈春旺を最高人民検察院に左遷させ、ひそかに周永康を「公安部の要職」に任命した。当時江沢民があまりの破格の抜擢で反発をよぶのを恐れ、周の「公安部長」への任命を公表しなかった。2002年12月7日、まず「人民公安報」という見栄えしない機関紙で発表し、反応を試したという。

 当時周永康は江沢民の後ろ盾があったが、羅幹政法委書記に従わなければならず、ときどき羅との意見が合わないのに悩み、江に訴えた。羅幹が退任した後、江沢民は周を政法委書記の座に引き上げた。しかし、公安部の実権を掌握し続けるため、従順な人物を公安部長のポストに引き継がせたがった。また、この人物は胡・温の認可も必要であった。すべての地方官僚の名簿を調べたら、ダンスマニアの江西省委員会書記・孟建柱が適任者の候補にあがった。公安部内で孟建柱部長は周らの操り人形に過ぎず、何の実権もないと言われている。


今の公安、盗賊の巣窟 

 中国法曹界関係者らは、2002年に周永康が公安部部長と政法委書記に任命された後、中国の法律制度の実態は大幅に退廃する一途で、社会治安も急速に悪化していたと認めている。また、凶悪犯罪件数が急増し、暴力団勢力が横行し、基本的人権や命に関する安全も脅かされている。

 官製統計データによると、中国の刑事犯罪件数は毎年17~22%の幅で上昇している。公安部は最も腐敗し最も暗い機関となった、と広く言われている。「過去に盗賊は奥山にいたが、今盗賊は公安にいる」「警察と盗賊が手を結んでいる」と言われ、この乱された社会現象に不満が高まっている。北京のある政治協商委委員がインターネットに「この公安部長にして今日の治安状況あり」との文章を載せた。

 周永康がどれほど権勢を振るい非道横暴を極めたか、実例の枚挙にいとまがない。

 
反腐敗闘士への誣告・殺害

 福建の賴昌星による大規模密輸事件が発生した後、中共中央は460人余りの庁、局長級幹部と73人の副省長級幹部を更迭した。周永康が中央調査チームリーダーとして福建省に派遣され、事件の腐敗問題を調査した。しかし、福州市党委員会書記・何立峰は民衆から大量の告発を受けたにもかかわらず、処罰どころか廈門市委員会書記に転任された。何回も腐敗官僚を告発した著名な「反腐敗闘士」・黄金高がかえって誣告され、刑務所に身柄を拘束された。

 2004年8月、人民網は福建省連江県元党委員会書記・黄金高の 「なぜ私は6年間に防弾チョッキを着用し続けたか」という5000字の投稿を掲載した。記事では、黄は密輸事件の実態を調査したため、一部の高官の仇敵になったと述べた。「命の安全を威嚇する脅迫状と電話を26回も受けた。何年間も公安部がガードマンを派遣し私の出退勤を保護した。最も多い時は我が家に9人のガードマンがいた。私は一日中防弾チョッキ着用で出勤・退勤している」という。
 
 黄金高が福州市財政委員会共産党委員会書記、主任を歴任したが、汚職や腐敗に染まらず世俗に同調しない理由で福州の官界から追い出された。2002年1月に連江県党委員会書記に左遷された。黄は600余の市民の懇請を受け、連江県江浜路改築工事の腐敗問題を調査・処理した。調査の結果、不正行為によって6800万元(8.8億日本円相当)の国有資産が流失し、市民らも300万元(3,870万円相当)の損失を蒙ったという。彼の調査で事件の真実状況が明らかになったが、法律違反者らはある有力者に庇われ、結局処罰されなかった。

 周永康が福建省で「密輸事件」に関して調査を始めて1ヶ月後、黄金高は「4人の愛人関係、女郎買い、500万元の賄賂授受等」の容疑で無期懲役に処された。福建省地元の官僚らさえ、「本当に汚職したとしても、この程度なら無期懲役を受けられないはず。明らかに陥れられた」と驚嘆した。

 黄金高は2009年7月に秘密裏に処刑された後、黄の家族らも相次いで「交通事故」で死亡したとのうわさがある。以前誰か黄への面会要請を刑務所に提出したが一度も許可されなかったという。外部では黄はすでに周永康と賈慶林に殺害されたと考えられている。

楊佳への処刑

 2008年7月日、中共創党81周年記念日当日、「楊佳の警察署襲撃事件」が起きた。北京の青年・楊佳(28)が2007年10月、上海に旅行した時、番号札のない自転車を借りたという理由で、上海市閘北区公安分局の警察官らに殴打され、生殖器まで機能不能になった。何度も陳情したが、解決の見込みはなかった。最終的に、楊佳はナイフ等を所持して上海閘北区公安支局に乱入し、警察6人が死亡、5人が負傷した事件を引き起こした。

 このニュースは全国民を驚ろかせた。インターネットで熱烈な議論が繰り広げられた。人々は公安部の実戦能力をあざ笑い、一方で警察官らの悪行を強く非難した。楊佳は逮捕された後、「理不尽さを、もし一生背負って行かなければならないとしたら、私は法律を犯した方がましだ。当局が明確な理由を説明してくれなければ、私が理由を説明する」と語った。当時、楊佳は中国インターネットで一躍最も関心をよぶ有名人となり、楊佳のこの言葉も当年の流行語となった。楊佳の本音が抑圧されている人々の共感を呼び、中共の暴政こそが中国の民衆を苦しめる根源であり、民衆の抵抗を招かざるを得ないものである。
 
 2008年10月13日、楊佳事件に対する裁判が上海市高等法院第5法廷で開かれた。数千人の民衆が裁判所の前に集まり、楊佳を声援した。数百人の民衆が「共産党を打倒しろ」と大声で叫んだ。(大紀元)

 民衆が楊佳に対する処罰を免除すべきかと熱い討論を展開していた頃、江沢民の甥・呉志明は2008年10月末、上海市公安部と政法委のトップらにひそかに「楊佳を迅速に処理」との江沢民の指令を通達した。しかし、責任を負うのを恐れ、呉志明は独断的に行動できなかった。結局、江沢民は周永康に直接指示した。

 周はマスコミの随行を避け、「工作視察」の名で11月24、25日の二日間に浙江省を訪問した。しかし、本当の目的は11月26日午前、上海で楊佳を秘密裏に処刑することであった。当時周は孟建柱の同行を要求した。孟は深い不安を抱かせて不眠症に悩まされた。先月数百人が上海高等法院の前で「共産党を打倒しろ」と大声で叫んだことを聞いたからだ。これは上海警察と民衆の敵対状態がすでに限界に達したことを示し、この時に楊佳を処刑すれば疑いもなく火に油を注ぐのも同然であった。楊佳を殺すということは、この政権を犠牲しようと決心したに違いない。

 孟建柱は周永康に対して楊佳の処刑をしばらく見送ったほうがよいと慎重に自分の意見を言ったが、当時、呉志明が片方足を震わせ、周囲の人々の前で「君のような情けない奴は、大事を成せない」とあざ笑った。罵声を浴びた孟は、局に帰るとすぐに辞職願を提出したが受理されなかった。

(翻訳・王君宜)
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