憂国の詩人 杜甫

【大紀元日本5月27日】中国唐代詩人杜甫(712~770年)は、徐々に衰退する盛唐の運命の如く、波乱万丈の生涯を送った。彼は、苦難の生活を強

杜甫(挿絵:雅婷)

いられながらも、国を憂い民を憂う崇高な心を失うことなく、後世の人々から長く敬愛され、「詩聖」と称された。

叶わぬ経世済民の志

盛唐に生まれ育った杜甫は、年若くして経世済民の大志を抱き、儒家の教えを実践し天下を良くしようと考えた。詩中にもしばしば、その雄々しい志が現れており、例えば、早期の作品『望嶽』の中の一句「会当凌絶頂,一覧衆山小(いつか必ず泰山の頂上に登って、周りの山々が小さく見えるのを眺めてみたい)」からも、聖人の志でもって自らに求めようとしていたことが見てとれる。しかし、残念ながら、時代は彼に、「致君堯舜上,再使風俗淳(我が君を堯舜以上の地位に就け、風俗を再び古の純朴に戻す)」(『奉贈韋左丞丈二十二韻(韋左丞丈に贈り奉る二十二韻)』)という抱負を実現させることを許さなかったのである。

杜甫は、都・長安にやってくると、遠大な志を実現しようとしたが、官職に就くことができず、十年の歳月が流れた。この十年で、彼は官吏の腐敗をいやというほど目にし、民衆の苦しみを身を持って味わい、かの有名な『麗人行』で役人たちの贅沢三昧を諷刺し、『兵車行』で長年にわたって戦争に駆り出される人々の痛ましさを描いた。

朱門酒肉臭く、路に凍死の骨あり

755年11月、田舎へ帰った杜甫は、幼い我が子が餓死しているのを見て、耐えられぬ悲痛を味わい、長安で暮らした十年間の見聞を詩に詠んだ。それが、彼の五言詩の代表作『自京赴奉先県詠懐五百字(京より奉先県に赴くときの詠懐、五百字)』である。これは個人の悲惨な体験から庶民の苦痛を推し量り、併せて、国家の前途を心から憂えたものである。安史の乱(756~763年、安禄山が引き起こした反乱)直前の社会の現実が正に、「朱門酒肉臭,路有凍死骨(金持ちの家では酒も肉も有り余って臭い匂いを発しているというのに、道端には凍え死んだ人の骨がころがっている)」の一句に余すところなく表されている。

国破れて山河在り

またたく間に、安史の乱が中原を席巻した。そんな動乱の中、杜甫は、詩を借りて自らの心中の苦痛を表した。彼は、家を思い、鄜州(ふしゅう、当時家族が疎開していた所)の月を思い、更には昔の太平の世を懐かしく思い出し、中原の地が安禄山の手から取り戻される日を待ち望んでいた。「国破れて山河在り」。杜甫は、反乱が平定される日が来るのを固く信じ、国を憂い民を憂う熱き思いを失うことなく、憂国の気持ちを胸に抱き、いつの日か天下が救われるのを待ち望んでいた。

憂国の心を詠んだ「詩史」

安史の乱平定後、杜甫はついに「左拾遺」(皇帝に諫言する役職)に就いたが、皇帝・粛宗を厳しく諌め、怒りを買ったことから、わずか数カ月でその職を辞めることとなった。杜甫は生涯、何度か官職に就いたが、決して人に阿諛(あゆ)迎合することはなかった。若い頃から庶民の苦しみを肌身に感じていた彼は、ちょうどそのころ、戦乱の世を嘆く社会詩の連作『三吏三別(「新安吏」「潼関吏」「石壕吏」「新婚別」「垂老別」「無家別」)』を詠み、庶民の苦難の状況を記した。このように、彼の詠む詩は、当時の世相を詠み込んだものが多かったことから、「詩史(詩による歴史書)」とも呼ばれた。

都を離れた杜甫は、『佳人』の中で、戦乱で妻を亡くした人の運命を描くことによって、国に捧げた自らの忠誠心を表した。このように、一生を国と主君に捧げ、高潔な品行であった杜甫がかくの如く、貧しく苦しい生活を強いられたことに、後の人々は啜り泣きを禁じえない。

安逸の中でも貧民を思う

49歳の年、杜甫は成都の浣花渓(かんかけい)の畔に茅葺の家を構え、そこを住みかとした。その後数年間、彼はのんびりとした暮らしをしながら、ゆったりとした伸びやかな作品を残した。ただ、平穏な暮らしとはいえ、生活は全てが意のままとはいかなかった。杜甫は、相変わらず、寒風が吹きすさび雨が降りしきる夜には、天下の貧しき読書人を思い、苦しい生活を強いられている庶民を思った。雨漏りのする夜には、わが身の上を憂いながらも、「安得広厦千万間,大庇天下寒士倶歓顔(千万間もの広い家が手に入ったら、天下の貧しい人々をそこに住まわせて喜びを共にしたい)」(『茅屋爲秋風所破歌(茅屋の秋風に破られる所となる歌)』)と高らかに詠み、天下の人がみな、「風雨にも動ぜず山のようにがっしりとした」住みかを得られるならば、「我が家が壊れて私が凍え死にしようとも本望だ」と考えたのである。ああ、かくも自らを犠牲にし、天下の貧しき人々を救わんとする偉大な心を持つ人が、これまで幾人いたであろうか?

後世に受け継がれる「詩聖」の志

苦しい日々を歩んできた杜甫は、一生ゆらゆらと揺れ漂ってきた自らを「天地一沙鴎(天地の間をさまよう一羽のかもめ)」(『旅夜書懐(旅の夜に思いを書く)』)になぞらえた。彼は、結局、志を遂げることは叶わなかったが、その詩歌の芸術は、後世に多くの手本を残しただけでなく、その写実的風格は中唐の新楽府運動と宋朝の古文運動に大きな影響を与えた。また、彼の憂国の心は、長く後世に伝わり、南宋の愛国詩人・陸遊や南宋の宰相で詩人・文天祥といった後代の文人に深く影響を与えることとなった。彼らはみな、杜甫の詩から精神の力を汲み取り、自らも偉大な詩を生み出し、不朽の楽章を書き上げたのである。

杜甫は当時の社会の様々な真の姿を詩に描き記した。さらには、古のすばらしい歴史を偲び、諸葛亮ら先祖を崇め褒め称えるのに、ただただ感嘆するのみであった。正に、今我々が杜甫を偲ぶとき、杜甫が当時諸葛亮を偲んで「長使英雄泪満襟(後世の英雄たちは、[まだいくさに勝たないうちに死んでしまった諸葛亮を思い、]涙で襟を濡らすことになる)」(『蜀相』)と感嘆したのと同じく、その悲壮さを表すことばを持たないのである。古の教えが廃れつつある今このときこそ、千古の英雄の賛歌を歌い続けなければならない。杜甫の筆になる詩史を読んで杜甫の心に思いを馳せる。なんとすばらしい境地であろうか。聖者のすがすがしい香りを汲み取り、かくも偉大な志が連綿と受け継がれ、5千年の中華文化の天と地が支え続けられんことを望む。