未来への伝言『家なき幼稚園』(2)

【大紀元日本12月30日】大正から昭和初期にかけて、特に1920年代(大正9年―昭和4年)は、日本の「子ども」が発見された時代でした。

大正7年、宝塚音楽歌劇学校が誕生します。「家なき幼稚園」を創立した橋詰良一氏は、宝塚少女歌劇団で脚本を書くなどして、その発展に尽力した人でもありました。少女ミュージカルへの情熱と「家なき幼稚園」開園の着想は、どこかでしっかりと繋がっています。

同じく大正7年に、童話と童謡の雑誌『赤い鳥』(夏目漱石門下生・鈴木三重吉)が創刊されます。赤い鳥に集まった作家たち(芥川龍之介、有島武郎、泉鏡花、小川未明、小山内薫、菊池寛、北原白秋、西条八十、佐藤春夫、高浜虚子、三木露風ら)が、日本の子どもを発見していく童謡や童話を、次々に全国にヒットさせていきます。この一世を風靡した赤い鳥運動は、翌年に雑誌『金の船』(後に『金の星』と改題)、翌々年には『童話』、そして大正11年の絵雑誌『コドモノクニ』の創刊を促す起爆剤となります。

家なき幼稚園が誕生した大正11年には、野口雨情作詞・中山晋平作曲の「シャボン玉」が雑誌『金の星』に登場します。

          シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ

          屋根まで飛んでこわれて消えた

          シャボン玉消えた 飛ばずに消えた

          生まれてすぐにこわれて消えた

          風々吹くな シャボン玉飛ばそ

野口雨情の長女は、生後7ヶ月で亡くなっています。明治41年のことです。わが子を失うことによって、子どもを発見した原体験が、シャボン玉の詩に淡々と凝縮されています。シャボン玉に託して、はかなくてかわいい子どもの命の未来を、消さずに飛ばしたのです。野口雨情に代表されるように、明治生まれの漢(おとこ)たちの童心が、日本の子どもたちのために、命懸けで新しい文化を創造したのです。童心とは良心のことだと、雨情は語っていました。「家なき幼稚園」を創った橋詰良一氏も、そうした漢(おとこ)たちに連なる、子ども文化の担い手でした。

ニューヨーク証券取引所の株価が急落し、ウオール街の取引所が破綻し、1929年に世界大恐慌が始まります。日本の社会に激震が走り、家なき幼稚園はこの年を境に姿を消してゆきます。子どもたちを巡る環境が激変し、やがてコドモノクニが廃刊に追い込まれ、1936年9月『赤い鳥』が幕を閉じます。

姉妹園を含めて7園(室町・宝塚・箕面・雲雀丘・十三・千里・大阪)あった家なき幼稚園は、昭和4年(1929年)から7年にかけ、家のある「自然幼稚園」へと名称と姿を変えます。最初に創られた室町の家なき幼稚園は、「池田自然幼稚園」へと名称が変わります。昭和9年の橋詰良一園長の死去後には、粗末だった園舎の改築が行われ、昭和15年に三度目の改名がなされ、近代的な「室町幼稚園」となります。

家なき幼稚園はシャボン玉のように生まれて飛んで、すぐに消えていきました。けれども橋詰園長先生が、時代と共に実現しようとした願いは、携帯電話のメールを飛ばして遊ぶ、今の子どもたちにも届けられています。子ども文化を、再生しようとする志を持つ人々は、いつの時代にも輝いています。心の家をなくした子どもたちのために、現代の多様な「家なきスクール」が、時代の要請に応えて不死鳥のように蘇っています。それがたぶん・・・「家なき幼稚園」が私たちに残した未来への伝言です。

*前回掲載(http://jp.epochtimes.com/jp/2006/12/html/d47978.html)、橋詰せみ朗は(せみ郎)に訂正します。

(つづく)