未来への伝言『家なき幼稚園』(3)

【大紀元日本1月12日】
初代園長・橋詰せみ郎の人となり

せみ郎という一風変わった名前は、蝉のような声で止まらずに喋る自分に名付けた、自戒のユーモアでした。明治4年(1871)に現在の兵庫県尼崎市に誕生します。士族の家に生まれます。幕末から明治の新時代の過渡期を、せみ郎の家族は上手く乗り切ることが出来ず、父の代で没落します。せみ郎は貧しいながら勉学に励み、14歳で灘地区の小学校の代用教員になっています。その後思い立って、神戸師範学校に入学。明治28年に卒業し、大阪市安治川小学校赴任を振り出しに、約10年ほど教師生活を送ります。

明治39年、せみ郎は35歳になっていました。この年に友人の紹介で、大阪毎日新聞社に入社します。しばらく記者生活を送ります。とんとん拍子に出世して、事業部長の役職に就きました。蝉のように熱弁を振るって周囲の人を感激させ、有志を仲間に募って新しい事を起こす才能が、せみ郎には備わっていました。新時代の敗残者となった父の面影を払拭する努力が、人生のどこかでなされていました。生来のやる気と進取の精神が、せみ郎を突き動かしていきます。大正デモクラシーを背景に昭和初期にかけて、時代の要請に応えた新聞社企画事業を、次々に率先して推進していきます。

事業部長であったせみ郎は、大正5年に「婦人社会見学団」を組織し、家庭内に閉じ込められがちだった婦人たちに、広く社会見学をさせることを始めます。これは10数年続きます。せみ郎が情熱を傾けた社会教育の、手始めの実践でした。かたわら、宝塚少女歌劇団の脚本「歌がるた」(大正6年)、「石童丸」(大正7年)を手掛けています。それはやがて『宝塚の歌劇少女』(大正12年)という、写真入りの小冊子となって出版されました。子どものような好奇心を、一生涯かけて貫こうとした人でした。

せみ郎の時代を見据えた眼は、次第に古くて新しい「子どもの国」の創造へと向かいます。大正11年、大人の社会がお手本とするような、純真な子どもの国を創造しようと、幼児教育運動をささやかに実践し始めます。それが『家なき幼稚園』でした。せみ郎にとって、日本の家庭・社会・国づくりのお手本は、永遠の幼心の神性を、大人が発見することの中にありました。

せみ郎、『家なき幼稚園』の信念を大いに語る

「・・・私の幼稚園に集まっている先生達は、学問よりも愛の心の純真さを貴いものだとするために『素人主義』ということを常に唱えて居ります。・・・素人の娘が幼児達をつれて朝から晩まで愛の道にいそしむ場所『幼稚園』は、人のつくった建物ではなくて神様のおつくりになった美しい自然の世界です。それがやがて『家なき幼稚園』という名の起こった最初で、青い林、赤い花、歌う鳥、鳴く蝉、どれもこれもが自然の幼児教育所で、その中に居る無知の娘と幼き子ども達とが、神の懐に嬉戯する有様を目的として居るのが、私の幼稚園であります。・・・純愛の心を最初として児童への愛、隣人への愛、友への愛、先生への愛、幼き者をもつ同邦への愛、愛を愛するものへの愛、愛を歌うものへの愛、それはやがて愛を宗教とする人々の道場ともなるもので、私が幼稚園というよりも『愛の道場』特に『児童愛』の道場として貴いものにしたいと祈りつづけている所以でございます・・・」(橋詰せみ郎エッセイ集・関西児童文化史研究会発行)

せみ郎は、家なき幼稚園で「母のお当番」という新しい方法を実験しています。当番に当たったお母様は、子どもと同じ弁当を持参して一緒に歌ったり踊ったり、遊んだりして終日、他の子どもたちとも共に過ごします。我が子ばかりでなく、人の子も同じように可愛いという、純真な愛の拡がりを体験させる実験でした。これについて、せみ郎は次のように語っています。「これはほんとうに、小さなことのようではございますけれども・・・児童愛の社会化、家庭から社会への愛の拡がりということが実験されるのでございます。この経験と愛との交換とが実際に見られての上でなければ、到底、社会の児童愛を語ることが出来ないともいわれましょう」(同上エッセイ集より)

(つづく)