【書評の「本」懐】『愛すべき名歌たち』阿久悠著(その二)

【大紀元日本3月11日】戦後という時代の手触り

高峰三枝子さんがった『湖畔の宿』(1940)のレコードを、17歳で海軍に志願した兄が神戸で買ってきます。兄の出征後どういう訳か引っ張り出して、阿久悠さんはこのレコードをよく聴きました。お兄さんは19歳で戦死します。兄が唯一遺してくれたレコードを、戦争が終わった押入れの中で布団をかぶって聴きました。

こっそり隠れるように聴かざるを得なかったのです。何不自由なく音楽を聴くという体験が、歌謡体験の最初に置かれてはいませんでした。そうではなかった原初体験が、阿久悠さんの作詞家としての出立に大いに影響を及ぼしています。

ポータブル蓄音機に『湖畔の宿』を掛けて聴くたびに、なぜか込み上げてくる哀しさに兄を偲んで泣きました。戦後という時局がもたらしたほろ苦く、そして淡くてモノ哀しい根底的な歌謡体験でした。ほろ苦い水を「おいしい水」に変える阿久悠さんの作詞の発条(ばね)は、この時に胚胎して育ったのではないでしょうか? 

戦時中に聴き知った戦後のヒット曲『長崎物語』(1939)で歌われた、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)と雨との奇妙な取り合わせの思い出についても語っています。阿蘭陀(オランダ)屋敷に曼珠沙華が咲いて雨が降る景色が歌われ、何ともいえない異国情緒を掻き立てるイメージが、8歳の子ども心を襲いました。

阿久悠さんが気になったのは「曼珠沙華が咲いたら雨が降るのか、雨が降ったら曼珠沙華が咲くのか」という点でした。曼珠沙華は彼岸花のことであり、死人花(しびとばな)でもある不吉な花であることを後で知ります。阿久悠さんは「その花は墓場の近くにあり、その根っこには骨が埋まっていると信じて」疑わず、『長崎物語』が歌う曼珠沙華の絢爛なイメージが雲散霧消する体験を味わいます。阿久悠さんにおける曼珠沙華に対するイメージは、死人花の赤く血に染まった花の傍らを、出征兵士を泣きながら見送る隊列が通る風景へと、紛れもなく転換してしまったのです。この辛らつなショックを吟味し消尽することによって、阿久悠さん独自の詞作りの真骨頂の屋台骨を形成します。曼珠沙華のイメージの転換は、一種のドラマツルギー体験に近いものであったはずです。阿久悠という特異な作詞家を育てる大切な体験でした。

戦中に聴いたこの二曲『湖畔の宿』と『長崎物語』をめぐる名歌体験には、阿久悠さんの作詞家としての骨格を形成したコアのような、反骨の骨太い感受性を窺い知ることができます。そしてそこに戦後の薔薇色の言葉の影を投げかけ、苦く哀しい戦中体験は光陰を駆け巡る言葉のパンチの効いた速度で消して、昭和のヒット曲を陸続と作詞する新しい表現を独自に発明していきました。

阿久悠さんはもう一曲だけ戦中歌『妻恋道中』(1937)を、この本で特に取り上げています。旅の一座が運んできた流行歌だったからこそ、それは自由にアナーキーに燦然と輝いて、9歳の阿久悠さんの胸を打ちました。阿久悠さんのお父さんはずっと駐在さんでした。戦後間もなく赴任した新しい駐在所の風呂場の窓から、隣接する芝居小屋の楽屋口が覗けて、新鮮な不良の風が阿久悠さんの歌心に舞い込んできたのです。この時の体験が「ぼくの人生の何分の一かを決定づけた」と、阿久悠さんがこの本で述懐しています。

阿久悠さんは終戦の8月15日に涙が枯れるほどに泣き、子ども心に占領軍の幻影におびえ、9月17日の枕崎台風にこの世の終わりを思った悲壮な歌謡少年でした。「決定打は、国定教科書に自らの手で墨を塗ったことによって、9歳とはいえ、小さいニヒリストになっていた」少年に魅惑的なカタルシスの衝撃を与えたのは、阿久悠さんにとっては旅の一座がもたらしてくれたような意味深い「不良の歌」の幾つかだったのです。

阿久悠さんはこの本の中で「中国との戦争が始まった年に生まれ、もの心ついた時には緊迫の非常時であり、国民学校に入るとアッパレ少国民になったぼくらの世代は、不良の存在を知らない稀有の子どもたちなのである」と、阿久悠という作詞家が巣立った原郷をストレートに明かしています。『妻恋道中』や『裏町人生』や『勘太郎月夜』など、戦時下の国情にそぐわず封印されていたアウトローの歌が、阿久悠さんにおける「不良の歌」だったとも述べています。この不良の歌を旅の一座が演じ歌って拍手喝采を受ける華やかな光景に、真の底から少年は心震わせました。

そしてまた、「股旅姿の花形役者が、赤ん坊をあやしていることもあった。そして、自由で朗らかそうな顔はしていたが、時折、地獄を見たような目をしてぼくを戦慄させた。20年後ぼくは歌を書き始める」・・・この華やいだ歌謡の舞台の影にしぶとく佇む戦慄を、流り歌の旋律に包み込んだのが阿久悠さんでした。反骨の時代精神を発条に今度こそ、時代に屈服しない不良の歌を作詞し続ける決意の炎が、めらめらと逆(げき)するかのように燃えました。こんな運命的な場面の幾つかに遭遇してきたからこそ、阿久悠さんの歌心は、時代を新しく紡ぐ言葉を編み出すように自ずと屹立してゆくのでした。