切符-母の日に母に捧げる愛のストーリー

【大紀元日本5月12日】震える手でその封筒を開けてみると、中には切符がいっぱい入っていた。この南部の小さな町から新竹県寶山郷までの往復の切符が、一往復ずつセットにして、全部綺麗に保存されていた。

僕は小さいときから、母の日を迎えるのが嫌だった。なぜなら、生まれて間もなく母親に捨てられたからだ。

母の日が来るたびに、僕は嫌な気持ちになる。母の日が近づくと、テレビもラジオもすべて、母の愛情をたたえる歌ばかりだからだ。クッキーのコマーシャルまでも母の日にちなんだ歌だ。しかし、僕にとってこれらの歌はとても耐えられないものなのだ。

僕は生まれて1ヶ月過ぎに、新竹駅で発見された。駅のそばの交番の叔父さんたちがばたばたしながら僕にミルクを与えようとしたが、泣き止まない。そのうち、赤ちゃんの世話に手馴れた婦人を見つけてきてくれた。彼女がいなければ、僕は恐らく泣きすぎて病気になっていただろう。僕がお腹いっぱいになってすやすや眠りにつくと、交番の叔父さんたちは、僕を新竹県寶山郷の徳蘭センターへ連れて行き、いつもニコニコしているカトリック教の修道女たちに引き渡した。

僕は母に会ったことがない。幼いときからずっと修道女たちに育てられたことしか知らない。夜になると、センターの他のお兄さんやお姉さんたちは勉強の時間に入るから、何もすることのない僕は、修道女たちの夜の勉強会にくっ付いていた。祭壇の下へ潜り込んだり、お祈りをしている修道女たちに向かっておどけた顔をしたりして遊んだ。時々修道女に寄り添って寝てしまうこともあった。心優しい修道女はミサが終わっていないのに、僕を抱えて部屋へ連れて帰ってくれる。修道女たちが僕のことを好きなのは、僕のおかげで彼女たちは聖堂をこっそり抜け出すことができるからだろうと思っていた。

僕らはみんな、家庭の事情からここにいるのだが、多くの子供はお正月や祭日になれば、親戚や親兄弟が迎えに来てくれる。しかし、僕だけは、自分の家がどこなのかも知らないのだ。

そのため、修道女たちは、僕みたいな本当の家無き子に特に良くしてくれ、他の子供たちが僕らをいじめることは決して許さなかった。僕は小さいときからまあまあ勉強ができたので、修道女たちは、僕にもっと勉強させようと、たくさんのボランティア家庭教師を見つけてくれた。

指折り数えてみると、僕の家庭教師をしてくれた人はずいぶんたくさんいる。交通大学と清華大学の大学院生と教授、工学研究院や区内の工場のエンジニアなどなど。

僕に物理と化学を教えてくれた先生は当時、博士課程の大学院生で、今は助教授になっている。英語を教えてくれた先生は、そのときすでに教授だった。僕が小さいときから英語がよくできたのは、その先生のおかげだ。

修道女たちは僕にピアノも習わせた。僕は小学校4年生のとき、すでに教会のエレクトーン奏者で、ミサでは僕が演奏を担当した。僕は教会のいい環境の中で育てられたおかげで、話が上手で、学校のスピーチコンテストによく参加し、卒業生挨拶の代表にも選ばれた。でも、母の日を祝う活動のときだけは、いつも重要な担当から外れるようにしていた。

僕はピアノが好きだが、永遠のタブーが一つあった。それは、母の日にちなんだ歌は弾かないということだ。誰かにむりやり弾かされないかぎり、自分から進んで弾くことは決してなかった。

僕は時に、自分の母親は誰だろうと考えることがあった。小説を読むようになってからは、私生児ではないかと思うようになった。父親は乱れた生活をしており、若い母親は僕を捨てざるを得なかったのだ。

僕はおそらく、素質は悪くなかったのだろう。加えて、熱心なボランティア家庭教師たちの教えもあって、新竹省立中学・高校に順調に受かり、大学も国立成功大学の土木学科に入学できた。

大学では、僕は働きながら学業をやり終えた。僕を育ててくれた修道女の孫さんが時々会いに来てくれたのだが、無骨な友人たちも、孫さんが来たときだけは、急に上品で優雅になったものだ。僕の生い立ちを知った同級生たちはみな、僕が修道女たちに育てられたから気性がいいのだと慰めてくれた。卒業式の日、同級生たちはみな両親が来てくれたが、僕の身内は唯一孫さんだけだった。その日、学科主任はわざわざ孫さんと一緒に写真を撮ってくれた。

兵役中に、僕は徳蘭センターへ遊びに行った。すると、孫さんが真面目な顔をして、僕に話があると言いながら、引き出しから封筒を取り出して、中身を見るようにと言った。

封筒の中には2枚の切符が入っていた。交番のおじさんが僕を連れて来たとき、僕の服の間にこの2枚の切符が挟んであったというのだ。母は、この切符で自分の住んでいるところから新竹駅までやって来たに違いない。1枚は南部の町から屏東市までのバスの切符で、もう1枚は屏東市から新竹までの各駅停車の汽車の切符だった。この切符から、母が決して裕福でなかったということがすぐに分かった。

孫さんの話では、彼女たちは捨て子の過去の身の上を調べるのはあまり気が進まないので、僕が大きくなってからにしようということで、その2枚の切符をずっと保管しておいてくれたそうだ。そして、僕が理性的で、この件をきちんと処理することができるようになったと判断したので、今日話してくれたということだった。彼女たちは、切符に書いてあるその町に行ったことがあるそうだ。とても小さな町で、人も少なく、身内を探そうと思えば、決して難しくないだろうと話してくれた。

僕はずっと両親に会いたいと思っていた。でも、いざこの2枚の切符を手にしてしまうと、躊躇し始めた。僕は今、順調に平和に暮らしており、大卒の学歴も持っている。結婚を考えている彼女さえいるのに、なぜ過去に戻ろうとするのか?まったく知らない過去を探しにいく必要なんてあるのか?しかも、探し当てた事実は、おそらく8、9割方不愉快なことであるだろうに。

孫さんは僕を行かせようとしている。僕にはすでに明るい将来があるのだから、自分の生い立ちの謎で心の片隅にいつまでも暗い影を残しておく必要はないというのだ。彼女は僕に、最悪の事態を考えておきさえすれば、探し当てた事実がどんなに不愉快であっても、自分の前途に対する自信が揺るがされることは決してないと話してくれた。

僕は思い切って出かけた。

これまで聞いたこともないこの小さな町は、山の上にある。屏東市からバスで1時間以上かかる。台湾の南部とは言っても、冬だったので、山の上はやはり少し肌寒かった。町は確かに小さく、通りに雑貨屋さんが1、2軒と派出所、町役場、小学校と中学校があるだけで、他には何もなかった。

僕は、派出所と町役場を行ったり来たりして、ようやく僕と関係がありそうな資料を二つ手に入れた。一つは新生男児の出生資料で、もう一つはその男児の行方不明通報資料だ。行方不明の通報は、まさに僕が捨てられた翌日であり、男児はその1ヶ月あまり前に生まれたという。修道女たちの記録によると、僕が新竹駅で発見された当時、ちょうど1ヶ月あまりだったという。ということは、手元にある資料は恐らく僕の出生資料だろう。

ただ、問題は、僕の両親は共に亡くなっているのだ。父は6年前に、母は数ヶ月前になくなった。僕には兄がいるが、その兄も早くにこの町を離れてしまい、行方がわからないという。

だが、小さい町だから、みんな互いに顔見知りだ。派出所の年配のおまわりさんが、母はずっと中学校で給仕として働いていたと教えてくれて、僕を中学校の校長先生のところへ連れて行ってくれた。

校長先生は女性で、とても温かく僕を迎えてくれた。先生が言うには、僕の母はとても優しい人で、確かにずっと学校で働いていた。ところが、父のほうはとても怠け者で、町のほかの男たちがみな都市へ出稼ぎに行くのに、父だけ出稼ぎに行こうとせず、町でアルバイトをしていた。とは言っても、小さな町なのでアルバイトもろくになく、結局、母の給仕の収入で生計を立てていたという。父は仕事をしないから、しょっちゅう心のバランスが取れず、酒を飲んでは憂さを晴らしており、酔っ払うと、母と兄に暴力を振るったりもした。酒が覚めると後悔するのだが、長年の習性は治らなかった。母と兄は最後まで父に振り回され、兄は結局、中学校2年生のときに家を出て、それ以来一度も戻ったことはないという。

校長先生の記憶では、母には確かに二人目の息子がいたが、1ヶ月くらいたって突然行方不明になったという。

校長先生は僕にいろいろなことを尋ね、僕はそれに一つ一つ正直に答えた。僕が北部の孤児院で育てられたことを知ると、先生は興奮気味にクローゼットから大きい封筒を取り出した。その封筒は母が亡くなったとき、枕元に置いてあったものだ。先生は、封筒の中身はきっと何か特別な意味を持っているものだと思い、親族が取りに来るまで保管していたという。

僕は震える手でその封筒を開けてみると、中には切符がいっぱい入っていた。この南部の小さな町から新竹県寶山郷までの往復の切符が、一往復ずつセットにして、全部綺麗に保存されていた。

校長先生の話では、母は半年毎に北部の親戚を訪れていたが、誰もその親戚が誰なのか知らなかった。ただ、北部から帰ってくるといつも、とても元気で明るくなっていたという。母は晩年に仏教を信仰するようになった。母が一番誇りに思っていたことは、お金持ちの仏教信者たちにお願いして、百万元(約320万円)を寄付してもらい、それをカトリック教が営んでいる孤児院へ寄付したことだ。寄付金を渡す当日、母も一緒にその孤児院へ行ったという。

確かに、南部から仏教を信仰する一群の善男善女が大型バスで孤児院に来たことがある。彼らはそのとき、百万元の小切手を徳蘭センターに寄付してくれた。修道女たちは感激の余り、子供たちを集めて、彼らと写真を撮った。バスケットボールで遊んでいた僕も、そこに引っ張られて行き、しぶしぶ一緒に写真を撮ったのを覚えている。なんと、そのときの写真も封筒の中に入っていたのだ。僕は校長先生に、どの人が母か教えてもらった。母は僕のすぐそばにいた。

また、大学の卒業記念アルバムの中のある1ページのコピーも封筒の中にあり、それにはもっと感動した。それは、卒業時にクラス全員で角帽をかぶって撮った写真で、僕もその中にいた。

母は僕を捨てたにもかかわらず、ずっと僕に会いに来てくれていたのだ。ひょっとしたら、大学の卒業式にも来てくれていたのかも知れない。

校長先生は物静かな声で僕にこう話してくれた。「あなたはお母さんに感謝しなければならない。お母さんがあなたを捨てたのは、あなたにもっと良い生活環境を見つけてあげるためだったのだ。あなたがもしここに留まっていたら、せいぜい中学校を卒業して都市で仕事を見つけるのが精一杯だっただろう。この町の人はほとんど高校へ行かないのだから。悪くすると、あなたは父親の暴力に耐えられず、お兄さんのように家出をして、帰って来なくなっていたかもしれない」。

校長先生は他の先生たちを呼んで来て、僕のことを話した。先生たちは、国立大学を卒業できたなんてすごいことだ、と僕のことを喜んでくれた。この町から国立大学に受かった人は一人もいないという。

僕は急にピアノが弾きたくなった。校長先生にピアノはないかと聞くと、ピアノはぼろいのしかないが、エレクトーンなら新品があるという。

僕はエレクトーンの蓋を開け、窓の外の冬の夕日に向かって、母の日の歌を一曲一曲弾き続けた。僕はみんなに知って欲しい。僕は孤児院で育てられたけど、孤児ではない。僕には心優しい教養のある修道女たちがいて、母親のように僕を育ててくれた。彼女たちは僕にとって正しく母親ではないか。そのうえ、生みの親がずっと僕を見守ってくれていたのだ。母のきっぱりとした決断と犠牲があったからこそ、僕は良い環境と明るい未来が与えられたのだ。

僕のタブーは消えた。僕はすべての母の日の曲を弾くことができただけでなく、口ずさむこともできた。校長先生と他の先生たちも僕と一緒に歌い出した。エレクトーンの音がキャンパスから流れ出て、山にも谷にも僕の弾く曲が満ち溢れているにちがいない。夕日に照らされた小さな町の人々はきっと、どうして今日、母の日の歌が流れているのだろうと不思議に思うことだろう。

僕にとって、今日が母の日だ。切符がいっぱい詰まった封筒が、母の日を恐れる僕の心を癒してくれたのだ。

※李家同:(Richard Chia-Tung Lee、男、1939年-)

台湾の国立曁南国際大学コンピューター・サイエンスと情報エンジニアリング学科の教授で、専門は計算方法設計、平行計算方法、等。近年、専門の研究と教育の傍ら、エッセイ、評論等の執筆も多数あり、弱者に対する思いやりと関心を社会に呼びかけるとともに、英語教育に対しても多くの提言を行っている。(Wikipedia参照)