庶民の悩みを自分の悩みとすれば、庶民も君主の悩みを自分の悩みといたします.

仁愛の士は天下に敵無し【神伝文化】(2)

(続き)

孟子 陛下は今、仁愛の情を動物に施されましたが、庶民にしてみれば、自分たちには施してもらっていません。まるで、3千斤の物を持ち上げられる力を持つのに、1本の羽毛さえ持ち上げられない、ずば抜けた視力を持ち、獣のうぶ毛の先まで見えるのに、目の前に置かれている1束の薪が目に入らない、ようなものです。庶民には陛下の仁愛の情が感じられないのですから、陛下をケチだと言うのも当然です。陛下が道徳を用いて天下の統一を図らないのは、できないからではなく、やりたくないからです。

斉宣王: 「やりたくない」と「できない」はどう違うのでしょうか?

孟子: ある人に、泰山を脇の下に挟んで北海を跳び渡るよう求めたら、その人は、「できない」と言うでしょう。これは本当に「できない」のです。ある人に、お年寄りに1本の枝を折って差し上げるよう頼んだのに、「できない」と断ったとしたら、それは「できない」のではなく、「やりたくない」のです。陛下には今、泰山を脇に挟んで北海を跳び渡ることが求められているのではなく、お年寄りに枝を折ってあげることが求められています。古代の聖人や賢者が一般の人を遥かに超越したのは、彼らが善意を施すことに優れていたからです。

陛下がそれをやりたくない原因は、自分の最大の欲望が天下を征服し、諸国の覇者になることだからです。庶民の利益を最優先に置いていないのです。しかし、もし、武力で天下を制覇する欲望を実現しようと考えていらっしゃるのであれば、目的を達成するどころか、むしろ、災いを招いてしまいます。熟慮してください。全国の軍隊を召集し、兵士らを命の危険に曝し、他の国と怨恨を結び、庶民に災難をもたらすことで、陛下は心からお喜びになることができるでしょうか。

斉宣王: とんでもない。どうしてこのようにして私が喜びを感じられるでしょうか。私はただ、自分の最大の願望を実現したいだけなのです。ことがこれほど深刻になるなど、まったく思いもしませんでした。あなたに説明されて、よく分かりました。

孟子: 庶民の喜びを自分の喜びと見なせば、庶民も君主の喜びを自分の喜びと見なすでしょう。庶民の悩みを自分の悩みとすれば、庶民も君主の悩みを自分の悩みといたします。天下の人々と一緒に笑い、一緒に悩む、このようにできれば、王者の道と仁義ある政治を実現できないなどということは、ありえません。遠方の人は帰順し、周りの人は安らかに暮らし、楽しく働くことができるようになります。天下の人々は皆陛下を擁護し敬愛することでしょう。このような時勢を、陛下は最もお望みなのではないですか?

斉の宣王は孟子の話を聞くと、とても嬉しくなり、孟子に補佐になってくれるよう頼みました。

結局、斉の宣王は補佐となった孟子の意見を心から受け入れ、武力で天下を征服する考えを捨て、仁義ある政治の道を選びました。その後、斉国は徐々に諸国の間で勢力を強めることとなり、庶民は皆、孟子の恩義に深く感謝しました。

(完)