中国伝統文化の精髄-「二十四孝」(6)

【大紀元日本11月30日】「孝」は儒家の倫理思想の核心であり、長い間中国社会で家庭関係を維持するための道徳基準であった。それは、中華民族の伝統的な美徳であり、中国伝統文化の精髄でもある。

 元の郭居敬は、中国古代の孝行が特に優れた24人の故事を集め、「二十四孝」を編集した。後に絵が配され、「二十四孝図」として孝行の道を広めるための通俗読み物となった。

 

(王裒・「二十四孝図」より)

16 王裒

 王裒(おうほう)は、魏晋時期の営陵(現在の山東昌楽東南)の人で、博学多才であった。父の王儀が時の皇帝・司馬昭に殺害されてから、彼は隠居し、書を教えて暮らしていた。彼は生涯、晋の家臣にはならないという決意を表わすため、皇帝のいる西方に向かって座ることはなかった。

 母は生前、雷を恐れていたため、亡くなった後、雷が鳴るたびに、王裒は母の墓前に駆けつけ、「お母さん、僕がここにいるから、怖がらなくていいよ」と慰めた。

 彼は、授業で『詩経』の「小雅・蓼莪(りくが)」(*)を読むたびに、涙を流しながら、両親のことを思い出した。

 (*)「蓼莪」の一節:【哀哀たる父母、我を生みて劬労す】哀しくも労(いたわ)しい父母は、私を生み育てるのに大変な苦労を重ねられた。(子が親の死を悼み、その恩に報いることができなかったことを嘆くこと。)

 

(王祥・「二十四孝図」より)

 

17 崔山南

 崔山南は唐代の博陵(現在の河北)の人で、山南西道節度使の職に就いたことから、「山南」と呼ばれた。

 崔山南の曾祖母・長孫夫人は、年をとり、歯が抜け落ちていたため、祖母の唐夫人は自分の乳を姑に飲ませた。そのため、長孫夫人は何も食べなくても依然健康であった。唐夫人はまた、曾祖母のために髪をくしけずり顔を洗ってあげた。

 長孫夫人は病気がひどくなった時、家族みんなを集めて言った。「私は花嫁の唐夫人の恩に報いることはできないが、子や孫やその奥さんたちは、唐夫人が私にしてくれたように、唐夫人に尽くさなければならない」と言った。

 後に崔山南は高官になり、果たして長孫夫人の言いつけどおり、祖母の唐夫人に親孝行をした。

 

(王祥・「二十四孝図」より)

18 王祥

 王祥(おうしょう)は、琅琊(ろうや)郡(現在の山東省)の人で、実母は早くに亡くなった。継母の朱氏は、王祥の父の前で何度も王祥の悪口を言って、父の王祥に対する愛を失わさせた。

 それでも王祥は、両親が病気のときは、寝る間も惜しんで両親に仕えた。ある日、継母が鯉を食べたいと言ったので、凍てつくような寒さの中、服を脱いで氷の上に座った。すると、氷が突然消え、二匹の鯉が跳ね出してきた。継母はその鯉を食べると、果たして元気になった。

 王祥は20年あまり隠遁生活を送った後、温県の県長官の職から大司農、司空、太尉の職まで歴任した。