≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(16)「苦難の逃避行」

そのとき、母は私の頭を軽くなでました。出発するので、お母さんの服をしっかりつかんでおくようにということでした。私は母にぴったりくっついて歩きました。不思議なことに、一旦歩き出すと何も怖くなくなり、落ち着いて来ました。私は自分に、決して遅れてはならない、と言い聞かせながら、弟の手をしっかり握りました。

 私たちは、休みも取らず、一気にずいぶん長いこと歩き続けました。後ろの空が次第に明るくなって来ました。八月初旬の夜明けは早く、地平線がわずかに明るくなったかと思うと、次第に赤くなり、そのうち空全体が明るくなって、ついには太陽が上って来ました。

 この時初めて、周りの様子がはっきりと見えるようになりました。周りの人はみんな母親と子供ばかりで、大人の男の人はほとんどいませんでした。隊の先頭と後ろに二人ずつ、年配の男の人がいました。銃を背負っており、みんなを守ってくれているようでした。

 一番下の弟は母に背負ってもらっていましたが、家族四人は横に並んで、人々の流れの中ほどを歩いていました。大人も子供も話をする者はなく、ただ緊張して足早に歩いていました。後ろにいる銃を背負った男の人が絶えず、足元に気をつけるように、そして遅れないように、……あの山に登ったら休憩できる、とみんなを励ましていました。やがて上り坂になり、歩くのがいっそう大変になりました。

 日が次第に高くなって、ますます暑くなり、母の顔は汗まみれでした。末の弟は母の背中でぐっすり眠っていましたが、やはり額からは汗が流れていました。歩けば歩くほど熱いし、疲れを感じ、喉も渇き、お腹も空いてきました。家から持って来た水もとっくに飲み干していました。妊娠していた母は、弟を背負ったうえに、カバンを肩に掛けており、歩くのが辛そうでした。私は、母のことが心配になりましたが、ただ黙って弟の手を引いたまま、飢えと渇きを我慢するのが精一杯でした。

 一番上の弟「一」は私より2歳年下でしたが、とても聞き分けがよく、両親を怒らせることはありませんでした。それに、私の言うこともちゃんと聞くし、私を敬って、どんな小さな事でも真っ先に教えてくれました。私もこの弟と一緒に遊ぶのが大好きで、何かあったら弟と相談しました。弟は目が大きく、鼻が高く、眉も濃くて、口角が少し上がっており、ハンサムでした。その端正な顔はきりりとして温厚でした。そのときの弟の顔は、暑さでずいぶん赤く、いっそう可愛らしく感じられました。

 二番目の弟「輝」は、「一」よりさらに2歳年下でした。とてもおとなしい子で、顔が白くきれいで、女の子のようでした。普段から恥ずかしがりやで、緊張するとすぐ、顔が赤くなり、とても可愛かったのです。彼は「一」ほど勇気はありませんでしたが、何をするにもしっかりしていました。その上、きれい好きで、自分のおもちゃもきれいに整理整頓していました。「輝」と比べると、私と「一」はとても大雑把な性格で、いつも母からきちんとするようにと言われていました。

 二人の弟が、飢えと渇きを我慢して、あんなに速く歩いたのに、一言も疲れたと口にしない姿を見て、二人のことがいっそういとおしくなりました。

 みんなの足取りは、出発したばかりの時ほど速くはなくなり、先頭を歩いている人も遅くなってきました。私は本当に少し休みたくなりました。母は私と弟が少し歩けなくなったのに気が付いて、私の手をしっかり引いて、休まず、頑張って前の人に追いつくよう、励ましてくれました。

私たち家族は次第に先頭のグループに近づきました

 

  私たち家族は次第に先頭のグループに近づきました。私も弟も自信がでてきて、元気になり、大股で速く歩きました。先頭にいた石原先生の奥さんは、私たちを見て、「飯塚さんの家族は本当に頑張っているね。もう少し辛抱して、山のふもとに着いたら休憩できるよ」と声をかけてくれました。

 石原おばさんはすらりと背が高く、若くてとてもきれいでした。母が、石原先生にはまだ子供がいないと言っていました。おばさんは大きな荷物を背負い、肩には水筒をかけ、首にはタオルをかけており、まるで登山家のようでした。今はみんなの先頭を歩いており、学校のキャンプのときの引率の先生のようで、私と弟にしっかり付いてくるよう励ましてくれました。

 不思議なもので、おばさんにそんなふうに褒められると、私と弟は全身に力が湧いてきて、足取りがさらに速くなり、あっという間に山頂に辿り着きました。私の家族と石原おばさんはみんなの先頭に来ており、私はとてもうれしくなりました。私の家は子供が多かったのですが、みんなで力を合わせて頑張った結果、遅れるどころか、先頭にきていたのです。

(つづく)