中国伝統文化の本質を論ずる(上)

【大紀元日本6月29日】

一.道徳一体

「徳」は中国伝統文化の核心であり、「道」と一体となって、中国伝統文化の本質をなしている。中国は五千年にわたる輝かしい伝統文化の中で一貫して「徳」を追及し、「徳」を重んじてきた。儒家であろうが、道家、佛家であろうが、それぞれの文化はいずれも「徳」の一字の上に成立している。

古代から「得」と「徳」と互いに通じ合い、「得た者は徳なり」と言われてきた。では、何を得たのか。得た物は即ち宇宙真理である道との同化であって、およそ道に符号する「得」はみな「徳」であり、さもなくば、徳がないとみなされた。

古人曰く、「道ありて、我徳という」。古人は徳と道が直接相通じるとし、徳は人に内在した道であると考えた。徳は道の中から生まれ、道の体現であり、それは道の異なる次元での基準と要求である。そして、宇宙の真理と同化した者が即ち「得た者」であり、大徳の士、即ち得道者であった。

古来、道と徳は一体であり、道を修めるとは徳を修めることであり、徳を修めるとは道を修めることであった。道と徳は一つであって一つではなく、二つであって二つではなく、不可分にして連なるものであった。老子は『道徳経』で既にこの道理についてはっきりと説いている。「孔徳の容(かたち)は、唯だ道に是れ従う」。その意味は、徳の最たるものがすなわち、道の体現であり作用だということである。

中華文化は初めから道と徳を緊密に融合させた。『易経』によると、「一陰一陽これを道という。これを継ぐ者は善で、これを成す者は性なり」、「大人は天地とその徳を合する」、「天行は健なり。君子以って自ら強めて息まず」、「地勢は坤なり、君子は厚徳をもって載物す」。

『礼記』にあるとおり、「誠は天の道なり これを誠するは人の道なり」、「天の命これを性といい,性に率うこれを道といい,道を修めるこれを教えという」。これらは中国文化の経典にみられる名句で、それぞれが道と徳の一体の体現である。すなわち、中華文化は道徳の文化だということができる。

中国の伝統文化には道徳一体の精神が満ち溢れている。本家の道家と儒家であれ、外来から本家化した仏教であれ、全てこの精神に体現されている。

中華文化は、国を治め、家を治め、身を治めるに際して、道の基準に基づくように求めている。「その身において修めれば、その徳は真となり、家において修めては、その徳は溢れ、その郷において修めては、その徳は長じ、その国において修めては、その徳は豊かになり、その天下において修めては、その徳は普く行き渡る」(『道徳経』第54章)。

このようにして、社会に「道を行きわたらせ、徳を充満させる」ならば、天下は優しく太平となる。これは儒家、仏家、道家の理想であり、また中国伝統文化が数千年来にわたって求めた社会における境地である。

(一)

中国古代の聖人たちは、三皇五帝から尭、舜、禹、湯、文、武、周公に至るまで、皆大道を体得し固く守った人であり、有徳の人として奉られてきた。彼らの開いた社会は、いずれも長い歴史の中で最も美しい社会であった。

ところが今日、歴史は既に遠く過ぎ去り、はるか昔の伝説と文献は早くに消滅し、現代の人々は、その時代のすばらしさと、その時代の人たちが追求していた高尚な道徳理念と人生の価値をうかがい知ることは極めて難しいこととなった。今、人々は周公と彼の開いた周朝社会からその手がかりの一端を見ることができるだけである。

古代の聖人の中でも、周公は偉大な政治家、思想家であり、偉大な道徳家でもあった。彼が提案した「徳をもって天に配する」「徳を敬いて民を助ける」、「徳を明らかにして罰を慎む」の思想は、周朝のもっとも重要な治国綱領になった。

周公はこう言った。「徳を敬わないわけにはいかない」、必ず「自ら徳を敬い」、かつ必ず「徳を敬うことをすみやか」にし、「徳の用」を発揮してこそ、天命を永く保つことができる(『召浩』、『無逸』)。

周公は深く知っていた。「皇天に親はなく、ただ徳をもってこれを援ける」(天は情を言わず、ただ仁徳を発揚してこそ、天の庇護を得ることができる)。道徳は立身立国の根本であった。このため、周朝は道徳の完全さが国を治めるにあたってもっとも大切なことだとした。

周の人たちは、先王の徳行を崇拝し、彼らが編纂した『詩経』の中でも興味深げに后稷、公劉、古公から文王、武王までの先祖たちがいかに高尚な徳をもっていたか、いかに徳修を進め、徳をもって国を興していたかの事跡を著して賛美した。彼らは文王の仁政を標榜して、「文王在天、於昭于天」(文王は天上にありて、その徳は天にもよく現れているではないか)(『詩経、文王』)とした。

周朝のこれらの聖君賢臣の徳行は、後の中華民族の子孫から頼るべき人生の手本とされた。周公の徳を以って国を立てるという思想は、周朝の主流思想となった。周朝の社会では、人々が追求する道徳の功業と道徳的な人格が、この社会の人生の理想となり、各階級の大多数によって認められ、ひいては下層階級の人々がこぞって追い求める目標ともなった。

人々は道徳を追い求め、それを堅守し、発揚し、ひいては道徳を自己の命よりも大事なものとした。「身を殺して仁を成す」ということが道徳の基準となり、社会全体が道徳的な雰囲気と環境の中にあった。

西周早期の文献では、すでに「修身、斉家、治国、平天下」の徳治思想が見られる。周代の人たちの徳に対する自覚と認識は、中華伝統文化の発展に堅実な基礎を築き上げたと言えよう。

(続く)