≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(43)「あわや掃討隊に連れて行かれそうに」

あくる日の早朝、養母は食料を背負い、弟の煥国を連れて出て行きました。私は、養母がなぜそんなに早く出て行ったのかわかりませんでした。いつもは、彼女はたいてい私に子守と留守番をさせるのですが、このときばかりは何も言わずに出て行ったのでした。

 養母が出て行ったので、私は寧ろ気楽に自由になり、ひとり部屋の中でひっそりと過ごしました。そのうち、隣の王喜蘭の家に行って王桂芳と遊ぼうと思いました。ところが、私が彼女の家に行くと、息子の嫁の上原豊子さんが私を見るなり、「早く家に帰りなさい。この家に来ては駄目よ」と私を追い出しました。

 私は本当に驚きました。なぜ私が来ては駄目なの?普段しょっちゅう来るわけでもないのに?今日は、養母が不在で自由なので、やっと遊びに出てきたのに。

 このとき、王おばさんもやってきていいました。「お馬鹿さん、あなたは家に来ては駄目なの。もうすぐ掃討隊が来るのよ。そうしたら、私たちが悪い人を庇っていると言われるわ」

 それで初めて、私は気がつきました。自分は日本人で、また旧満州国警察の「劉官吏」の養子で、「悪い人」なのでした。掃討隊に知られたら、王おばさんの家にとっては不利なのでしょう。私は何も言わず、王おばさんの家を出て、自分の家へ帰りました。とても情けなく、悲しい気持ちになりました。

 ただ、養母が不在で、折檻される心配もなかったので、とても気が楽で、隣の家に追い出されてもそれほど気になりませんでした。私は、当時9歳でしたが、種々の曲折と侮辱を経験してきたので、ちょっとやそっとのことには驚かないし、随分我慢強くなっていました。

 そのころ、私はよく、神様に守ってくれるようお願いしました。神さまは公平で、決していつまでも私に苦しみを与え続けるとは思えませんでした。しかし、それ以来、以前のように日本人を見たら親近感を感じ、信頼するということはなくなりました。

養母が家を出た次の日、掃討隊が本当に我が家にやってきました。

 

 養母が家を出た次の日、掃討隊が本当に我が家にやってきました。

 その日の気温は低く、外は雪が降り、風がぴゅうぴゅう吹いていました。昼前になって、突然、我が家に数十人の人がやってきましたが、私は誰一人として知りませんでした。その中の中年女性が私に尋ねました。「あなたのお母さんはどこに行ったの?」「知らない」と私は答えました。すると、その中年女性の後ろにいた男女が、「言わなかったら、おまえを連れて行くぞ」といい、また別の人が「言わなければ、吊るし上げるぞ」と脅しました。私はそれを聞くと本当に怖くなり、すぐに、「私は本当に母がどこに行ったのか知りません」と付け足しました。

 ちょうどそのとき、私たちの裏庭の孫家の嫁が、私を囲んでいた人込みをかき分けて、私の面前まで来ると、「小さいお馬鹿さん、あなたのお母さんは誰の家に行ったの?言わないと、あなたを区政府まで連れて行くからね!」と言いました。私は、「お母さんは出て行くときに何も言いませんでした。私は本当に母が誰の家に行ったのか知らないんです」と答えました。

 孫家の嫁は、私の話を信用しました。他の人たちは、私が「小さいお馬鹿さん」と呼ばれているのを聞いて、「あ、この子は馬鹿なのか、だったら聞いても駄目だな」と口々に言いました。

 孫家の嫁は少し考えてから、振り返ると皆に言いました。「この子は日本人の養子で、お母さんはしょっちゅうこの子に腹を立てていたの。どうもこの子は本当に知らないようだ。あの女はきっと朝鮮村の玄さんの家に行ったと思う。私が案内するわ」

 彼女がこういうと、皆はぞろぞろと外に出て行き、もう私を問い詰めることはありませんでした。部屋の中には、私ひとりが残されました。私は、自分が囚われそうになったのが怖かったからか、それとも、養母が捕まるのが心配だったからか、わかりませんが、両足から急に力が抜け、震え出しました。いつの間にか心の中で、「どうか神様、養母があの人たちに捕まりませんように」と祈っていました。

(つづく)