【中国伝統文化】司馬光と「徳」

【大紀元日本11月16日】北宋の政治家で、歴史家でもある司馬光(1019 – 1086)は、紀元前403年から紀元969年までの歴史を編年体で綴った『資治通鑑(しじつがん)』を編集した人物。この歴史書は、実際に政治を行う上での参考にすべき書として、後代の王朝では大変重宝され、司馬光も、偉業を成し遂げた学者として尊敬されている。

司馬光は、人間を4つのタイプに分類した。抜け目がなく機敏でと才能に恵まれた人、馬鹿で才能も徳もない人、高貴で徳が高いが才能がない人、卑しい性格で徳もないが才能には恵まれた人。

彼が官僚の人選をするとき、まず選ぶのは「抜け目がなく機敏な者」のグループからだった。2番目に選ぶのは、「高貴な人」のグループで、もしその両方から最適な人物が見つからなければ、卑しい人物のグループから選ぶより、馬鹿のグループから選ぶと言った。なぜならば、才能があって徳を欠く人物は、才能がない人物より危険だからだ。

司馬光によれば、才能があり、徳の高い人物はよい行いを通して偉業を成し遂げるが、卑しい人物は、たとえ目的が達せられても、その過程で必ずしも正しい行いをするとは限らず、往々にして残酷な手段を使うものだからだ。従って、人選の任についた者は、慎重にならなければならず、才能ある人物に惑わされず、徳があるかどうかも見極めなければならない。

歴史上、精神的に堕落した皇帝や、裏切り者の高官、父親が裕福で甘やかされた馬鹿息子などは、皆徳を著しく失った人物で、彼らのために国や地方が大損害を被った例は、たくさんある。歴史上悪名高いのは、殷の紂王、 周の幽王、隋の煬帝などで、彼らは才能に恵まれていたにもかかわらず、徳を欠いていたため、国家を滅ぼすことになったのである。

殷の紂王(紀元前1100年ごろ)は、器量がよく、弁舌に優れ、頭の回転が早く、素手で猛獣を手なずけるほど頑強な身体を持っていたという。しかし、彼は巧みな弁舌で自分の間違いを隠し、諫言には耳を貸さず、神への祭祀をおろそかにするなど増長していった。後に彼はますます堕落し、贅沢をほしいままにし、、妲己(だっき)という妖艶な美女に溺れてしまう。言い伝えによると、紂王は木々に干し肉をぶら下げて林とし、酒を溜めて池とし、その周りで裸の男女が鬼ごっこするのを眺めながら愛欲に耽ったといわれている(酒池肉林)。紂王は、佞臣を重用する一方、異を唱える者には容赦なく、数々の残酷な方法で殺していったことも記されている。後に、紂王は周の武王に滅ぼされる。

歴史の教訓から、司馬光は徳の必要性を強調した。特に、国の高官や皇帝には、徳の高い人物が選ばれるべきだと説いたのである。

(翻訳編集・田中)