≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(53)「日本人孤児が集められて…」

【大紀元日本11月28日】私は沙蘭鎮の小学校に上がってから、弟の趙全有を見かけました。それはまさに可愛く聞き分けの良い弟でした。彼に会っても話す間がありませんでしたが、弟はこの二年の間に背が伸び、端正で凛々しい男の子になっていました。

 私が入学して間もない冬のある日、区役所の人が学校へ日本人の孤児を探しに来ました。その日、私の学級担任の王先生が、私とクラスメートの孫淑琴に区役所に行くよう言いました。私はそのとき初めて知ったのですが、孫淑琴も残留孤児だったのです。

 孫淑琴は私より小柄でしたが、とても可愛く、漆黒の髪、白くて綺麗な丸顔、二重のパッチリとした眼をしていました。彼女はとてもおとなしく、恥かしがりやで、普段あまり話したがらない子でした。私はそれまで、彼女が残留孤児であるとは知りませんでした。

 孫淑琴は、河北の永明村に住んでいました。彼女の家には、彼女だけしか子供がいませんでした。生活もまた豊かで、彼女の養父母も彼女を大変にかわいがっていました。

 それゆえ、多くの人たちは彼女が日本人の養子であるとは知りませんでした。

 私たち二人が区役所の事務室に入ると、既に部屋の中には大勢の子供たちがいました。その中に弟の趙全有とその同級生の陳成林がいました。

 私は入学してから、趙全有のクラスメートに陳成林という日本人の残留孤児がいるということは聞いていたのですが、その日区役所に行って初めて、その日本人残留孤児と会いました。

 陳成林は見たところ、弟の趙全有より小柄で、女の子のように端正で可愛らしいものでした。一目ですぐに、言うことを聞くおとなしい子だと分かりました。隅のほうに立ち、勝手に物に触ったりなどせず、本当に私の2番目の弟のようでした。果たして2番目の弟は今も生きているのだろうか。段々と忘れかけていた記憶が蘇ってきました。

 聞くところによると、陳成林の家の養父母には子供は彼一人しかおらず、とても可愛がっていました。特に、養父が彼のことを気に入っていて、どこへ行くにも彼を連れて行きました。

 集まって来た中で、女の子は私と孫淑琴だけで、他には、会ったことのない大勢の男の子たちがいました。こんなに大勢の日本人孤児が中国に留まっていたなんて思いもよりませんでした。

 その中に、程汝祥という腕白な男の子がいたのを覚えています。家は王家屯にありました。彼は見るからに利発そうで、特に黒い瞳がぐるぐる活発に動いていました。その部屋の中にいた子供の中でも、彼はじっとしていられないようで、大人しい子ではありませんでした。火箸でしばらく暖炉の火を掻き回していたかと思うと、足を暖炉の前で暖めたり等、自由奔放で、きっと養父母が彼のことをたいそう可愛がっていたに違いありません。

 その他、裴鳳岐という痩せた男の子がいました。彼は趙全有より年が上でしたが、まだ学校には上がっていませんでした。身に着けていたものは非常に薄着で、聞くところによると、彼の家には養父と叔父さんしかいず、養母はいなくて、生活は非常に困難だとのことでした。私は、彼の寒そうな様子が可哀想になりました。もしお母さんがいれば、そんな風に凍えるようなことにはならなかっただろうなと思いました。私はまた自分の母親を思い出していました。

 これらの子供の中で、最も恵まれていたのが張国華という男の子でした。彼の養父は獣医で、家は豊かでした。彼は大変に可愛がられ、よくレストランへ連れていってもらっていたそうです。私の家は以前、新富村の道北にあったのですが、夏にこの男の子を見かけたことがありました。当時は、養父が彼を抱いており、彼は小さな服しか着ていなくて、お腹が丸見えでした。彼のおへそは特に大きく外にせり出しており、非常に印象深く覚えています。

 (続く)