道家文化と神韻公演

【大紀元日本1月24日】今年の神韻公演に『西遊記』に題材をとった演目がある。先日『西遊記』を読んでいると、第50回にちょうど孫悟空の「道士は賢良なる者を感化し、僧侶は愚者を感化す」ということばがあり、多くのことに思いを巡らすこととなった。

「道士は賢良なる者を感化する」とは、道家は必ず、賢く道徳的に申し分のない弟子を奥義の伝承者に選ばねばならないということである。その弟子の資質は極めてすばらしく、一を以って多を類推し、一を聞いて十を知ることができるため、師が道を説くに当たって、ちょっと指摘するだけですむ。

中華文化の創始者は黄帝で、「人文の始祖」と称された。彼は道家の修練者であったことから、5千年の中華文化は一貫して道家の色彩を色濃く伴っており、ギリシャ文明やキリスト教文明、あるいはその他の佛家文明と大きく異なっている。

伝統的な中国人の性格は内に秘めるもので、話があっても三分しかしゃべらず、聞く人に多くの想像の余地を残す。これはおそらく、「道士は賢良なる者を感化する」という道家の文化と大いに関係があるのであろう。中国の哲学、詩歌、絵画などがしばしば人に尽きない余韻を与えるのはそのためである。それをどのように体得し理解するかは、それに接する人の悟性がいいかどうかにかかっている。

一方、「僧侶は愚者を感化する」とあるように、佛家は衆生済度を重んずるため、愚人にも分からせなければならない。そこで、奥深い法を分かりやすく講じ、森羅万象を含みつつも微に入り細に入らなければならないことになる。

佛教は中国に入って以来、中国本土の文化の影響を多く受けた。その結果、本来物事を詳しく明晰に解き明かすことのできる佛法から「禅宗」なるものが生まれた。禅宗では多くのことがわざと神秘的に語られ、ついには語ることさせしなくなった。六祖の慧能のように、『金剛経』の一句を聞いてはたと多くの佛法を悟る者もいたが、ごく稀であり、多くの者はなぞのような禅宗の中であれこれとなぞを探り、結局要領を得られなかったのである。

中国人の文化と思考の方式を詳しく観察してみると、何とも微妙で奥深いところに気が付くであろう。例えば、道家は特に陰陽のバランスを重んずるため、中国の多くの文化作品で、対比ということが重んじられている。

唐代の詩人王維は、その作品に禅の心が多く含まれていることから、「詩佛」と称された。ただ、詳しく観察してみると、道家の特徴も多く含まれていることがわかる。例えば、「鳥鳴澗」に次のようにある。

人閑桂花落  人 閑にして 桂花落つ

夜静春山空  夜 静かにして 春山空(むな)し

月出驚山鳥  月出でて 山鳥を驚ろかし

時鳴春澗中  時に 春澗の中に 鳴く

飛ぶ鳥の鳴き声、谷川を流れる水の音、落ちる桂花など、「動」を描くことによって静寂な光景を際立たせている。そこには正に、『道徳経』の「長短相形、高下相傾」(長短相形(アラワ)し、高下相傾く)の境地が含まれている。

さらに例を挙げてみよう。唐代の詩人張継の「楓橋夜泊」の出だしは次のようになっている。

月落烏啼霜満天  月落ち 烏啼いて 霜 天に満つ

江楓漁火対愁眠  江楓の漁火 愁眠に対す

第1句で「月落」「霜満天」によって「暗・寒」の感じを与えておき、第2句でそれとは対照的な「江楓」「漁火」を取り出す。霜の降りたときの赤々とした楓の葉の暖色と、漁火の明るさで対比させたのである。

中国古典舞踊に「反律」というのがある。左に動く際まずは右に動き、右に動くにはまずは左に動き、下へ行かんとしてまずは上に行き、上に動かんとしてまずは下に動くというものである。

この種の左右上下の対比と、まずは反対の動きをするというのは、『道徳経』の「まさに之を歙(ちぢ)めんと欲すれば、必ず固(しばら)く之を張る。将に之を奪わんと欲すれば、必ず固く之に与う」に通じるところがあるように思われる。

但し、道家文化が考えれば考えるほど味わいが出てくるとは言え、理解の多くを接する人の悟性に頼っており、多くの人に十分理解されるのは難しい。そうなると、本当に広範に人を済度するには、佛門に頼るしかない。

神韻公演の演目から、中華文化の詩歌や書画の如き世界を味わうことができ、何度観ても、観るほどに崇高で奥深いものを感じるはずであるが、さらに大切なのは、そこに含まれる洪大で奥深い趣きと無尽の天機が人類文明と宇宙の運行の終始を貫いているということだ。

これほどに奥深く洪大な天機が、純粋で美しい芸術形式によって分かりやすく表現されており、基本的な善悪の判断ができる人でありさえしたら、そこに込められたメッセージが理解できるであろう。これは、伝統的な道家文化にはどうにも成しえないところである。神韻公演は実に神の軌跡をわれわれに見せてくれていると言えよう。

(翻訳編集・瀬戸)