≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(71)

に入って間もなくして、私もこの「共産主義青年団」に入りたくなりましたが、自分が日本人の子供で、劉家は共産党によって「富農」とみなされ、養父もまた日本統治下の満州政府で警察官をやっていたこともあって、いろいろと思い悩みました。しかし、組織委員の顔喜貴も日本人の子供だということを聞いて、私も大胆に熱情溢れる申請書を書きました。

 当時の私は、共青団に加入できるということは思想的に進歩していることの表れであり、そうなれば人に蔑視されることもなく、社会からも認めてもらえると考えていました。そのため、入団にとても憧れており、本人の普段の行いが社会の道徳規準に合っていれば何ら問題はないものと思っていました。しかし、これを機に、自分の出自がそういったことに優先することを思い知らされることになるのでした。当初はこれに非常に困惑することになるのですが、申請する前には予想だにしませんでした。

 まだ幼かった私は、申請書に、「党」と中国政府が私をトンヤンシーの境遇から救ってくれたことに対し、感謝の言葉を綴りました。また、「党」と国家の期待に背かないよう、学業に励み、将来は必ず中華民族の繁栄のために貢献する…と決意を表したのでした。

 当時の私は、長年にわたって注ぎ込まれた概念がどれほど荒唐無稽なものであったかには思い至らず、申請書に「党」と中国政府が私を救ってくれたことに感謝を表したわけです。当時は、「党」と政府を混同していただけでなく、区役所の張区長が示してくれた温情も「党」と政府への恩とみなしました。私は、「党」と国家を同一の概念で理解していたのです。幼い時から耳にタコができるくらいにその概念を吹き込まれる環境の中で育つと、知らぬ間に、中国とは「共産党」のことであり、「共産党」イコール中国だという錯覚に陥り、ついには、中国と政府も「共産党」に属していると考えるようになります。誰かが勇敢にも、中国共産党の悪い点を挙げようものなら、それは中国を批判し、政府を批判しているようなもので、その罪は極めて大きいということです。私はその当時、共産党によって注ぎ込まれたこれらの概念がどんなに間違っているものか、全くわかっていませんでした。

 私は申請書を提出し、団支部委員か学級担任の先生からの返事を待ちましたが、数週間経っても梨のつぶてでした。そのうち、団に入りたい、光栄ある共産主義青年団の一員になりたいという強烈な欲望が次第に薄れていき、再び、以前のように黙々と勉強するという気持ちが戻ってきました。

 思いもかけなかったある日、夜の自習をしていると、劉先生が私を職員室に呼びました。私はわくわくしながら国語の職員室に入りました。他の先生方は授業を終えて帰宅したようで、部屋には他には誰もいませんでした。

 先生はまず、私の経歴や劉家の養父の事情などについて簡単にたずねてきたので、私はありのままに答えました。ところが、思いがけないことに、先生は私にこう言いました。「あなたは日本軍国主義の家庭に生まれ、また日本統治下の満州政府で警察官をしていた人の家に引き取られて成長した。したがって、極めて深刻な資産階級の思想をもっていることになる…」と。

 私はこの数言を耳にしただけで、唖然としました。先生は続けて何か言っていましたが、何も耳に入ってきませんでした。私は中国の家に引き取られ、中国の小学校に入ってからこれまで、このような批判的な言葉を耳にするのは初めてでした。私はいったい、どんな間違ったことをしでかしたのか全く分からず、ただ茫然とするだけでした。

 現実のこととして、出自が人の一切を決定し、人の一切に取って代わったのです。善悪の普遍的な基準が、中国共産党に区分された出身によって取って代わられたのです。私はそれ以来、この区分された出身によってすべてが決定されてしまうことになるのです。実際の私の行いが良いか悪いかなど関係ありません。中国共産党が考える良くない階層に入ってしまったら、将来は蔑視され苛められる運命になり、そこには法律とか道徳が介在する余地などありません。

 しかし、私は小さいときから、細かいことに耐え全体の調和を取ろうとする心理が身についていたので、反駁しようとはしませんでしたし、どのように反駁したらいいかもわかりませんでした。ただおとなしくそこに立ったまま、劉先生の「似て非なる」批判教育をじっと聞いていました。

 先生は批判し終わると、最後にやさしい言葉で私をこう慰めてくれました。「がっかりすることなく、今後の勉強の過程で、農民や工員(中共が定めた先進的な階級)と多く接触し、骨の髄から絶えず自分の精神を改造するようにしなさい。そうすれば、組織の長期的な試練にも堪えられます…」。まるで工農の出身でありさえすれば、悪い人はいないような言い方でした。何と奇怪なことでしょうか。しかしあの年代は、それに対していささかの疑いも持つことは許されなかったのです。

 (続く)