≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(76)

私と弟は、水入らずで話すことはありませんでしたが、この目で弟を見ることができるだけで満足でした。弟が日を追うごとに成長するのを見て、ことばに表せない喜びを感じました。当時、弟を見たり、弟のことに思いを馳せると、東京にいるおばあさんや姉のことを思い出しました。また、父や母と別れたときの情景が思い起こされました。

 このように、幼少時期のことを忘れることなく、しっかりと記憶に留めることができましたが、それは、こうして弟が長い間そばに居てくれ、心の支えになってくれたからに違いありません。

 ほどなく、冬休みに入りました。この年の冬休みには、仲間が一人増えました。中学三年一組の関桂琴です。彼女のお父さんはちょうど病死したところでした。

 関桂琴は、小さいときに母を病気で亡くしていました。それで父親が彼女と弟を育てていたのでした。姉二人はすでに結婚していました。彼女の父はとても子供たちをかわいがっており、子供が辛い思いをするんじゃないかと心配して、後妻を娶ろうとはしませんでした。父と子は三人で寄り添うように生きていました。

 しかしその父が突然病死し、家には彼女と弟だけが残されました。弟はまだ小さくて、物事をわきまえていませんでした。父親の死は彼女には大変なショックで、毎日口数も少なくなり、悲しむばかりでした。

 私と劉桂琴はできるだけ彼女を元気付けようとしました。しかし、かなり長い間、彼女はこの辛い出来事が頭から離れず、いつも陰で涙を流していました。

 幸い、二番目のお姉さんの旦那さんが小学校の先生で、弟を引き取ってくれたので、彼女は学校に上がって勉強することができるようになりました。

 それ以降、劉桂琴と関桂琴と私の三人は、お互いに気遣い、思いやり、一蓮托生の本当の親友のようになりました。

 私と彼女たち二人は同じクラスではありませんでしたが、実の姉妹以上に親しくなりました。もしその中の一人が病気になれば、私たちは何とかして付き添って面倒を見ました。

 ある年の冬にインフルエンザが流行し、寄宿していた学友の半数以上が、発熱、嘔吐の症状を訴えました。そのため、学校に登校してくる学友はほとんど数えるほどだという日が何日も続きました。

 先生も病気に罹り、休講になって、やむなく自習しなければならない時もありました。しかし、私はこの病気には罹りませんでした。これは多分に、幼少時期からずいぶん苦労してきたため、体質が比較的に良かったせいでしょう。

 劉桂琴と関桂琴も病気で寝込みました。特に劉桂琴の病気は重く、何日も高熱が続き、意識がぼんやりしていたので、私とその他の学友たちとで順番に彼女たちに付き添って世話をしました。

 普段から私たち三人は、「福は同じく享受し、苦しみは分かち合う」ことを念頭にしていたので、映画も一人では決して行かず、お金が貯まったら、三人一緒に行きました。病気になってマーホア(大きなカリントウの一種)を食べたくなると、お金がないので、一本だけ買ってきて、三つに分けて食べたものでした。服も洗って着替えがなくなると、分け隔てなく、お互いに借りて着ました。

 そのため、学友たちは私たちのことを「三琴」と呼んでいました。(私の中国名は「劉淑琴」でした。)

 当時、私たち三人は確かに勝ち気で、負けず嫌いでした。学習の面では勿論のこと、仕事の上でも労働の上でも、すべてにおいて模範的な働きをしていました。私たち三人は、その他の学友に対しても進んで面倒を見、互いに助け合いました。

 冬休みになると、「防衛隊」のメンバーとして野菜貯蔵庫の中の野菜を整理するのを手伝い、夏休みになると、図書館の先生が図書を整理するのを手伝うのでした。この期間に、私たちはたくさんの本を借りて読んだものです。

 私たち三人は勤勉に努力したため、学校から一等の奨学金を受けることになり、食券も発行してもらえたので、食事の問題は解決しました。

 (続く)