≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(84)

中学卒業と高校受験、趙おばさんの死

 学校が始まった後、私たちは高校に進学するため、毎日勉強に忙しく、私はずっと沙蘭に帰ることができませんでした。

 当時、私たちに国語を教えてくれる先生に、程天聡という方がいました。程先生は年をとってはいましたが、とてもユーモアがあり、教養と風格もあり、授業も型にはまったものではなく、生き生きとしていたので、私は先生の授業を聞くのが好きでした。

 先生は私たちに中国の古文の知識を教えてくれるだけではなく、よく人生の哲理まで教えてくれました。程天聡先生は私が信頼した先生の一人で、たいへん学識がありました。

 中学卒業の前夜、各クラスの団支部はまた多くの共産主義青年団団員を発表しました。批准された新しい団員の名前が、赤い紙に筆で書き出されて、学校に入ると一目で分かる廊下の壁に貼り出されました。出自に問題があるため、私はまたしても認められず、心の中ではやりきれず困惑していました。

 私は中学一年に入学した直後から共産主義青年団に入ることを求め、申請書に記入し、何も隠すことなく自身の身分と経歴を明かしました。私は自分が日本人であることを否定しませんでしたが、それはわずか数年の幼少時代だけでした。

 私は劉家に預けられ、劉家の養父が旧満州日本統治政権下の警官ではあったものの、彼はいい人でした。私は養母には折檻され罵られました。家は「富農」として区分されましたが、この家では5年半しか過ごしていません。

 私自身の人となりは誰の目にも明白なのですが、それが私の「出自」になってしまっていました。その上に、私にはまたさらに「日本の軍国主義の後代」というレッテルが貼られ、出自が複雑だという「政治背景」から永遠に逃れることはできそうにありませんでした。それは、私のその後の進学、仕事、結婚などの人生の肝心要な時には、大変な障害となってくるのです。

 当然言うまでもなく、一旦共産主義青年団に加入したら、「完璧」という文字が頭上に高く掲げられ、人生の生死を左右する大きな権限を手にすることができ、以降の待遇が全く違う「党員」となれるのです。

 当時、程先生は私の境遇を理解してくれました。今なお先生が慰め励ましてくれたことばが忘れられません。先生は私にこう言いました。「今後の成長過程の中で、あなたはさらに、挫折、憂い、悲しみを経験することがあるかもしれません。しかし、あなたは強く賢い生徒なので、自分にはそれを克服できる智恵があり、正確な選択ができるということを疑ってはなりません」

 幼少時期には、生母が常々言っていた「どのような時でも希望を失わないように」という言葉は、私の心に深く刻まれており、私が人生を生き抜く上での支えになっていました。それに加え、程先生が教えてくれたことによって、それ以降の大きな風雪と挫折の中でも、私は大いに励まされ、自身の目標を選択し勇敢に進んでいくことができました。

 ただ、残念なことに、私が高校に上がった後の57年冬、程天聡先生は「右派」のレッテルを張られてしまいまいました。その後、私は二度と程先生を見ていません。

 その後も、本当のことを言い、教養と学識があり、また正義感があって善良な先生たちが次々に、中国共産党の政治運動の中で批判され、無残な結末を送ろうなどとは、当時は夢にも思いませんでした。

 私が寧安一中で勉強していた間に、もう一人姜晩平先生という方がいたのですが、私は姜先生にもとても感謝しています。姜先生は私の境遇に同情するだけではなく、よく私の面倒をみてくれました。私は何かあると、姜先生に相談したいと思ったものです。

 私は高校を卒業した後、牡丹江師範専門学校に配属されたのですが、その年の冬休み、お正月の間は、学校には誰も人がいなくて、食堂も閉まっていたので、私はまた寧安一中にやって来ました。するとちょうど姜先生に会い、お正月は、先生の家で過ごしたのでした。

 (続く)