≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(86)

一言では言い尽くせない高校での運命

 高校に上がった後、私は1年1組に配置され、関桂琴は2組でした。中学で同じクラスだった孟沢繁と関莉民も1組になりました。しかも、孟沢繁と私は同じ机になりました。

 孟沢繁の家は寧安鎮にありました。彼は後に、私の夫になりました。彼の父親は元、朝鮮中学校で中国語を教えていて、その後、寧安一中に異動になり、国語を教えていました。50年代の中国の教師は地位が低く給料もとても安いものでした。たかだか数十元で、一家7人を養うのは至難の業でした。孟沢繁には、上にお姉さんが一人、下には弟二人と妹一人がいました。家庭の生活は困難で、彼も三等奨学金を受けていました。

 私たちがまもなく中学卒業というときに、クラス全員で写真撮影をしたのですが、孟沢繁がその時期でもまた、冬物の綿入れの上着を身につけており、しかもそれがとても窮屈そうだったのを覚えています。その写真は今なお、保存してあります。

 孟沢繁の家は、安寧鎮では所謂「文化人」一家で、もし中国共産党の社会でなかったら、間違いなく世間の尊敬を受けていたのに、その当時には全く顛倒していました。

 父親の孟希賢は、日本の旧満州統治時代に日本の京都大学に留学した経験があり、二番目と三番目のおじさんもまた高等教育を受けていました。二番目のおじさんの奥さんは、旧満州統治時代に機密文書を扱った秘書の経歴があり、三番目のおじさんの奥さんは小学校の校長でした。

 二番目のおじさんは長春市に住んでいて、共産党が権力を握ってからは中国の刑務所で20年余りの獄中生活を送りましたが、奥さんのほうは肺結核を患っていたため、幸運にも刑罰を受けずに済みました。しかし、家で裁縫をして、一人で3人の息子を育てて学校へ行かせました。文革の時にも、彼女たち母子は多くの苦しみを受け、ずいぶん差別されました。

 一方、孟沢繁の父は、幸い、文革の前夜に病死しました。当時、孟沢繁のおじいさん、おばあさん、彼の母、彼の叔母さんなどは、父が亡くなって悲しみに暮れていましたが、文革中にその他の家々が受けた中国共産党による政治運動の迫害のことを思うと、彼の父親が早くに亡くなったことは、却って幸運なことだったとも言えます。あの地獄のような恐ろしい迫害を受けずに済んだからです。さもなくば、孟沢繁の家族は、大人から子供まで、更に巻き添えを受けて苦しい目にあったことでしょう。

 私たちが高校三年生に進級した時、彼の父親は朝鮮中学から寧安一中に異動してきたのですが、私たちのクラスを教えることがなかったため、もちろんこの国語教師を知りませんでした。

 夏休みのある日、孟先生は学校に宿直にやって来て、偶然私とばったり会いました。そして親しみをこめて「劉淑琴」と私の名前を呼び、自分の息子が私と同じクラスの孟沢繁だと教えてくれました。私はそのとき、なぜだか、少しきまりが悪く感じました。自分と同じ机に座っている同級生の父親がこの学校の先生だとは全く知らなかったのです。その上、優しくて慈愛に満ちた父親でした。

 孟先生は私に、日本にどんな身内がいるのか、日本語はまだできるのか、と聞いてきました。そして私に、日本語を忘れないように、将来きっと使い道があるからと言いました。それ以降も、何度も私に日本に帰るよう勧めてくれ、また、日本語をくれぐれも忘れないようにと忠告してくれました。

 孟先生との話の中で、先生が日本語ができるということ、またかつて日本に滞在したことがあるということが分かりました。それ以降、私は内心、孟先生に対して信頼と尊敬の念を抱くようになりました。孟先生は何度も、お正月には家においでと誘ってくれたのですが、先生の息子がクラスの同級生なので、世間体を気にしてしまい、ついぞ孟先生が病気で亡くなるまで、私はずっと先生の家に行ったことがありませんでした。

 (続く)