≪縁≫-ある日本人残留孤児の運命-(87)

寧安一中の時に、孟先生以外で私の面倒をいろいろと見てくれたのは校長の王建先生でした。先生は、旧日本統治時代に東北地方の長春にあった建国大学の第七期卒業生で、日本語はとても流暢でした。

 先生は、土地改革後に牡丹江一中で教育の仕事に携わり、後に寧安県の八中の校長に就任し(あの時、全省の配列で、寧安は八番目になっており「八中」と称された)、54年に寧安一中が設立されてからは、寧安一中の初代校長に就任していました。

 王校長は、元の名前を王益平といいました。家は遼寧省の撫余県にあって、家庭の暮らし向きは苦しく、兄弟は三人、兄は鉄道の労働者、父母はすでに年老いており、弟はまだ小さく、元来、彼が高校、大学へ進学するお金はありませんでした。そこで、家の両親が決定して、現地の長者であった李家の、彼より四歳年上の長女と婚約させ、李家が王益平を大学にやることを了承したという次第です。

 王益平はみんなの希望に背きませんでした。当時、建国大学が募集したのは、大多数が日本人でしたが、東北地区では中国人も少しだけ募集しました。その時、王益平はずば抜けた成績で建国大学に入ったのです。

 王先生の家には、建国大学で勉強していた時に撮った写真がたくさんありました。ただ、あまりにもばらばらだったので、私は後に王先生のお手伝いをして、それらの写真を年代順に整理して、アルバムにきれいに貼りなおしました。

 王先生が94年に来日して我が家に来たときにも、この写真集のことに話が及び、先生にとっては今生で一番大切な宝物になっていたようです。

 王校長の夫人は、親切で善良な奥さんでした。奥さんは私の身上にとても同情してくれて、いつもお正月に餃子を作る時には、娘の王智利を寄こして私を呼びに来ました。ただ、お正月に伺うのも気がひけたので断ると、子供に私の寮まで餃子を届けさせてくれました。

 私はずっと王先生の奥さんを自分の身内同様に思っており、よく家に行って、その家の子供のように家事を手伝ったりしました。王先生には子供が三人いて、みんな私のことを「劉おねえさん」と呼んでくれました。私も彼らのことを喜んで自分の兄弟のようにみなしました。

 私が結婚した後も、私の家の姑も、王校長が在任期間中に孟先生のことをずいぶん気にかけてくれたことに、とても感謝していました。今でも、私と主人の孟沢繁は、王先生とよく連絡を取り合っています。

 当時、私が日本残留孤児でありながら一等の奨学金が受けられたのは、王校長の配慮なしには考えられません。高校を卒業して、牡丹江師範専門学校に入ることができたのも同じで、王建校長の助けがなければ、私のような出身家庭の者には考えられないことでした。私のことを気にかけ、私に同情してくれ、日本人だからといって蔑視したりしない王校長やその他の先生たちの助けがなければ、私が中国で高等教育を受けるなどというのは、想像すらできないことでした。

 当時、「政治的な背景」が理由で、進学できなかった日本残留孤児や中国人の子供たちは決して少なくありませんでした。その点では、私は本当に幸運に思っていますし、先生方に一生感謝しています。

 (続く)