英国バイリンガル子育て奮闘記(36) コーンウォール州の日本人(1986-2006年)

【大紀元日本5月24日】

コーンウォール州の日本人(1986-2006年)

私が最初にコーンウォール州に移り住んだ頃は、ほとんど日本人が存在しなかった。もう一人、反対側の海岸沿いに住む唯一の日本人の奥さんと、「今日、スーパーで日本人発見。長く滞在するのかしらね。住み着くのかしらね」と情報交換をするほどだった。

娘が生まれ、私一人で、娘に日本語で語りかけるようになってからは、「お母さんは勝手に新しい言語を作り出したわけじゃない」ということを理解してもらうため、駅前の観光情報センターに手作りの日本語ガイドを置いてもらい、日本人の女性観光客が連絡できるような体制をとった。数人の観光客の方が立ち寄ってくださった。初めての時、日本人のお姉さん二人と遊べてもらえて、娘はドキドキしていた様子だった。でも、娘がトイレに行っている間に、「鉄道の時刻だわ」ということで、家を去ってしまった。トイレから出てきて、お姉さんたちがいないことを知り、ひとしきり泣くはめになってしまった。

そして、語学学校も存在しない小さな町に、毎夏、日本人がホームステイをしにくることを発見。日本各地から集まった高校生が、引率の先生に連れられて、2週間ほど各家庭に滞在する。コーディネーターと知り合いになり、滞在日程表に、私の家でお茶を飲むというイベントを組み込んでもらった。娘が小さい時は、高校生に地元の情報を伝えるインストラクター役を務めていたが、ある時点から、娘の年齢の方が高校生のお兄さん、お姉さんと近くなり、楽しくゲームなどをして、私は引率の先生と二人でお茶を飲むだけになった。

その後、地元の小学校に日本文化を紹介するとか、フラワーアレンジメントやガーデニングをするボランティアとして、企業に斡旋された日本人が来るようになった。日本の職場で数年働いた後、イギリスにあこがれてやってくる若い日本人女性たちが多かった。生活水準や道徳観念が日本より低いイギリスで数ヶ月過ごした後、「世界中どこに住んでも同じですね」と言い残して去っていった人もいた。

ここ数年は、地元のコーンウォール人と結婚して居住する日本人女性の数が増えてきた。日本企業も日本人社会もほとんど存在しない場所で、手に職をもった看護婦さん、美容師さんなどが、たくましく地元の生活に溶け込んで生きている。こんな中で、大阪弁でバイリンガル子育てをしている方とも出会った。私同様、自分の文化が消えることに危機感を覚えている方だった。東京言葉しか話せない私の場合は「テレビ言葉=マミーの言葉」だが、彼女の場合は、テレビを見せても子供に大阪弁が身に付かない。 彼女の二人のお子さんは、大阪弁、東京言葉、英語の三か国語同時バイリンガルだ。私が一生懸命、大阪弁をまねしたら、子供たちにゲラゲラと笑われてしまった。

(続く)

著者プロフィール:

1983年より在英。1986年に英国コーンウォール州に移り住む。1989年に一子をもうけ、日本人社会がほとんど存在しない地域で日英バイリンガルとして育てることを試みる。