【ショート・エッセイ】「夏の花」のあとに

【大紀元日本8月29日】 悲しむべきことではあるが、日本の近代文学のなかに原爆文学という他国の文学にはない特異なジャンルがある。

その代表的な作品は、映画化もされた井伏鱒二の「黒い雨」であろう。原題は「姪の結婚」という。閑間重松とシゲ子の夫妻は、同居する姪の矢須子のなかなか決まらない縁談に気をもんでいた。矢須子が広島市内で被爆しているという噂が狭い地域社会を巡り、いつも破談になるためだった。そこで重松は、原爆投下時に矢須子は市内にいなかったことを証明するため、8月6日から15日までの自身の日記を取り出して、清書しようとする。

その回想のなかで物語は進んでいくのだが、あるところまで書いて、ふと重松の筆が止まる。その時、矢須子が広島市内にいなかったのは事実だが、瀬戸内海の船上で放射能を含む「万年筆ぐらいの太さの黒い雨」を浴びていたのだ。矢須子はやがて原爆症を発症し、縁談もまた流れた。

井伏鱒二の「黒い雨」は、どちらかといえば戦後の被爆者に対する周囲の偏見を主題としている。一方、原民喜の「夏の花」は、広島市内の自宅にいて被爆するという作者の直接体験に基づくもので、自身が見た原爆投下後の惨状の描写に重点が置かれている。

以下、文学作品を読んだ上での想像に基づいてつづる。

重度の熱傷に施された初期的な処置は、今日では考えられないが、食用油を塗ったり新聞紙の焼き灰をはりつけたりするものだったらしい。8月の炎熱。劣悪な衛生環境。化膿した傷口に蝿がたかり、やがて蛆がわいたという。話には聞くが、その光景は想像を絶する。

ほかの何よりも水を欲しがった。そうだろう。焼き焦がされた人間に、生ぬるい一杯の水さえ与えられなくてどうする。しかし、水を飲ませると死ぬとも言われたせいか、苦悶のなか、末期の水さえ与えられず死んだ人も多いと聞く。戦争は、終わっていた。

いま想像しているのは、65年前の、8月後半の日本の一場面であり、そのなかにいた人々のことである。それ以外のことではない。

(埼玉S)