私が見た内モンゴル草原破壊の過程(二)

【大紀元日本10月21日】

乾草は薪

冬の内モンゴルは非常に寒くなるため、暖を取らなければならない。あの時、私にはいつも解明できない謎があった。我々農民の庭には薪が常時たくさん用意してあり、その薪の山の大きさからこの人の勤勉さが分かったものだ。しかし、モンゴル人の庭には薪がほとんど見えなかったが、煙突からいつも煙が出ていた。

後に、その謎の答えが見つかった。草原の砂漠化に興味があった私は、モンゴル人の生活習慣について考え、やっと少し分かるようになった。モンゴル人は朝鮮人と違って牧民である。農民である朝鮮人は、夏に野良仕事をこなし、冬には休む。冬は山に行って薪を取り、1年分の薪を全部用意するため、薪の山が大きいのだ。一方、モンゴル人は牧民だから、一年中、動物を駆って山に行き放牧する。この時、牛車をひきながら乾燥した枝や牛糞を拾って来る。だから、モンゴル人は薪を山ほど積んでおく必要がない。モンゴル人の勤勉と朝鮮人の勤勉は、概念が違う。これは習慣や文化の差である。もちろん、現在内モンゴルに住んでいるモンゴル人はすでに遊牧生活を捨て、農民になっているので彼らの生活方式も変わっている。

当時、内モンゴル草原には石炭がなく、主要燃料は牛糞や乾燥した枝、乾草だった。薪は冬に取るが、乾草を取るには自製の大熊手を使う。熊手は幅1メートルぐらいで、直径6ミリの針金20本で作られている。乾草を掻き集める時、肩で熊手を引っ張ってあちこちを歩きまわる。1ヶ所に掻き集めた後、場所を変えて掻き集める。ある人が掻き集めた後、別の人が来てまた掻き集める。春になるまでずっと掻き集めるので、冬の間、村周辺の山には乾草がほとんどなくなってしまう。特に春の3月末から4月初旬、大地が解凍する頃には、草の根まで取られてしまう。

1971年、初めて村を建てる時、村の周辺には乾草がたくさん溜まり、腐ったものも少なくなかった。あの時は、村の周辺で大牛車が満タンになるほど乾草が取れたが、数年経つと取れなくなり、遠いところまで行かなければならなくなった。しかし、遠いところに住んでいる人も同じ状況で、彼らも外に出なければならなくなった。私は故郷を離れてからすでに20年以上になるが、現在の故郷では恐らく、掻き集められる乾草はないだろう。

春の山火事

あの時、生産隊の田んぼや畑の管理は不備だらけだった。秋の収穫後、田んぼを管理する人はあまりいなかった。翌年の春になると、田んぼにはたくさんの乾草があった。乾草を処分する方法は燃やすことだが、大面積の田んぼの乾草を燃やすには数日の時間がかかった。下手をすると火が山に逃げて行き、山火事になってしまう。燃えるものなら、何でも燃えてしまう。乾燥、樹、動物の巣、餌などが全て無くなった。中国東北にある大興安嶺、小興安嶺で森林火事が起こったことがあるが、大部分はこれが原因だった。

杏樹も薪に

草原には杏樹がたくさんあった。高さは1メートル以上、大きいものでも3メートルを超えない。5月になると花が咲き、山全体が白とピンクに染まる。山を越えるとまた花がたくさん咲き、言葉通り、まさに果てしない「花海」になる。恐らく日本の桜に負けないほど綺麗だったと思う。また、杏樹はとても優秀な薪でもあった。乾燥させる必要はなく、直接燃やすことができた。杏樹は根が浅いため取るのも簡単で、斧や鎌も不要だった。歩きながら踵で蹴るだけで取れてしまう。だから、一部の人は熊手を引っ張って歩きながら、踵で杏樹を取る。彼が取った薪を見れば、半分以上は杏樹だった。しかし、数年経つと、杏樹はほとんどなくなってしまった。現在は、ほとんど消えてしまった。

乾草は草原にとって必要不可欠なものであり、少なくとも2つの重要な作用がある。一つは腐ると有機肥料になること、もう一つは地面の水分蒸発を防止すること。杏樹は自身が草原の地肌を保護する役割を果たすだけでなく、乾草が飛び散ることを防ぐ。冬の内モンゴル草原は風が強く、乾草は全部飛び去ってしまう。しかし、杏樹の下には乾草がたくさん溜まっていた。

不法狩猟

内モンゴル草原には野生動物がたくさんいる。ウサギ、ノロジカ、雉(キジ)、狼、狐などだ。1960年代から1970年代中旬まで、しばしば狼が村落に入って豚、羊、ロバ、牛などの家畜を襲うことがあった。降雪後、ウサギ、ノロジカ、雉などが餌を取りに村落に入ってくることもあった。私のいた村には趣味として狩りをする人が数人いたが、雪が降ると狩りに出かけていた。1960年代には、一日にウサギを4、5匹狩るのは、極普通のことだった。1970年代中旬になると、何も捕まえずに帰ってくることが多くなった。恐らく、あの時から中国では野生動物保護政策を実施し、狩りを規制したり、庶民が銃を持つことを制限したりした。あの時はほとんどの場所で野生動物が消え、外モンゴル(モンゴル共和国)との国境線あたりにしか残っていなかった。

1986年夏、私は薬草を取るために、ジャルド旗(扎魯特旗)のチャカンラジというところへ行った。そこはとても立ち遅れたところで、当時は電気も通っていなかった。私は村から2キロ離れた小屋に数日泊まった。モンゴル人は遊牧生活を捨ててから、草原にこのような簡単な小屋をたくさん作っている。夏の小屋は臨時の放牧用のもので、とても簡素で窓の扉もない。この小屋付近には羊圏(羊を囲んでおくところ)と牛圏が一つずつあり、普段は家畜の番人がこの小屋に泊まる。夜になると狼が家畜を狙ってやって来るため、深夜は用を足したくても外に出てはいけないと注意された。就寝前には、銃身3本に火薬を入れ、3面の壁に一つずつ掛けておく。深夜、犬が激しく吠えると、火もつけずに窓から空に向かって銃を撃ち、大きい声で数回叫ぶ。犬が静かになるとまた寝る、の繰り返しで、一晩に3本の銃を全部撃ってしまうと夜明けになる。

そこには馬鹿(馬のように大きい鹿:マールー)がたくさんいる。馬鹿を家畜のように飼う人もいれば、大量に飼い、牛のように放牧しながら飼う人もいる。馬鹿の体の器官の多くは貴重な漢方の原料として重宝されている。鹿茸、鹿鞭、鹿胎盤、鹿心臓、鹿血などは高い値段で売れる。一方、自宅で飼っている馬鹿はあまり好まれない。なぜなら、「霊芝」という貴重な薬草を食べた馬鹿の器官でなければその薬効は少なく、家畜の馬鹿は「霊芝」を食うことができないからだ。だから、人々は野生の馬鹿を狩るのだ。

当時、国の保護指定動物だった野生の馬鹿を狩るのは不法だったため、皆が協力して狩りを行った。私は、鹿茸を乾燥させる人に会ったことがある。彼は馬鹿狩りの罪ですでに牢屋に入ったことがあるが、釈放後は、警察と協力してやるようになった。彼らが鹿茸を1800元で警察に売ると、今度は警察がそれを広州に持ち出し、2万元で売るのだ。

(続く)

高峰一(コウ・ホウイツ)
著者略歴:
内モンゴル生まれ。1989年に延辺大学修士を卒業し、その後8年間、地元で環境保護の仕事に携わる。1997年に来日し、2003年、東京工業大学博士課程を修了。現在、日本企業に勤務。