【呉校長先生の随筆】 ーステーキ王子ー

【大紀元日本1月25日】賢(けん)君は中学2年生の後期に、父親と大喧嘩をして家出してしまいました。学校側はいろいろな情報をもとに彼を探しましたが、見つかりませんでした。風のうわさで、彼は台北で働いていると聞きました。

夏休みの終わりごろ、賢君は突然私のオフィスを訪れました。彼は濃い色の学生服を身につけて、ピカピカに磨いた靴をはき、以前注意された変な髪型ではなく、短い黒髪に戻っていました。それを見て私は少し安心しました。そして、笑うと目が一本の線のようになる彼に「久しぶりだね」と声をかけました。

賢君は、彼の父親がもうすでに怒っていないことを知っているので、今回は自宅に急ぐことなく先に学校を訪ねたと話しました。そして、「僕は学校に戻りたい」と切り出しました。私は戻って来てくれた彼にお茶を入れ、台北で何をしていたのか聞きました。

賢君は半年間ほど、台北のあるレストランの厨房で下働きをしていたようでした。時々ウェイターの仕事も兼ねていた賢君は、レストランで使える英会話もマスターしたと語りました。賢君は、「僕は同時に8枚のステーキを焼くことができますし、火力の調整や判断も的確です。店のオーナーは僕のことをステーキ王子の賢君と呼んでいました」と自信にあふれた表情を見せました。

私は、彼の話を興味深く聞いていました。結局、学校で学べる事は限られており、学校では教えてくれないこと、例えば英会話や家庭科などの総合的な授業は、全てレストランで学べたと話してくれました。私は、彼が学んだこれらのことも学校の成績として採点すべきだと思いました。

賢君は卒業後、自分の半年間の経験を生かすためにレストラン管理学科を専攻し、将来はステーキ・レストランのチェーン店を開くという夢を語りました。彼の話は、とても感動的でした。まさに私が先ほど手にとった一冊の本『台湾ばあちゃん』の内容のようです。この本は、靴磨きの少年が100店舗を構えるチェーン書店のオーナーになった話です。私が、「賢ちゃんステーキチェーン店にしましょう」とレストランの名前を提案すると、彼は楽しそうにうなずいてくれました。私はその本を、お店を出店するための参考にと彼にプレゼントしました。

学校では毎年国際週間があります。今回のテーマは、異なった文化についての授業交流で、対象国はブラジルでした。台北に駐在するブラジル大使を招き、同国の歴史、民族、文化、名産物、スポーツ、音楽と舞踊を1週間にわたり紹介する一大イベントでした。その時、賢君はクラスメートを集め、家庭科の先生と共に来賓のために洋食ランチを披露しました。

厨房で同時に16枚のステーキを焼く賢君の熟練された手さばきに私はすっかり見とれてしまいました。彼はさらに調理した料理を自ら来賓の人たちのところまで運び、サービス満点のおもてなしをしました。賢君の半年間の経歴を知った大使は、驚きと同時に彼を賞賛しました。

賢君は中学校を卒業してから念願の専門学校に入り、飲食管理関係の勉強に励みました。卒業した翌年、母校の運動会に顔を出した賢君は別の卒業生が5万元(約15万円)を寄付したのを見て、自分もとポケットから皺くちゃの千元札2枚(約6千円)を取り出しました。それは賢君の電車賃と生活費だと知っていた私は急いで彼の腕を軽く叩き、「賢ちゃんステーキのチェーン店が本当に発展した時に、金額の書いていない小切手を学校に贈ってください。だから、この2千元は自分で使ってください」と声をかけました。賢君は少ししょんぼりした様子でしたが、すぐに真剣な目になって「はい、約束します。いつか母校の運動会の時に、必ず金額の書いていない小切手を贈ります」と返事をしました。

6年が過ぎました。私は繁華街を通る度に、知らず知らずのうちに「賢ちゃんステーキ」のお店を探すようになりました。残念ながら店を目にすることもないし、彼に関するうわさもありません。でも、もしいつか何処かで彼に出会ったら、私の代わりに挨拶をしてほしいものです。

※呉雁門(ウー・イェンメン)

呉氏は2004年8月~2010年8月までの6年間、台湾雲林県口湖中学校の第12代校長を務めた。同校歴代校長の中で最も長い任期。教育熱心で思いやりのある呉校長とこどもたちとの間に、たくさんの心温まるエピソードが生まれた。

(翻訳編集・大原)