【ショート・エッセイ】 茶のみ話で「茶の話」

【大紀元日本4月16日】常飲しているのは熱湯を注ぎ込む安価な番茶ばかりだが、なかなか気に入っている。

もとより茶道の作法にも思想にも無知であるため、それを語る資格は持たない。ただ茶道が、多くの先人によって研ぎ澄まされ、洗練され、ある種の「かたち」を示す日本の代表的文化となったことは想像できる。私のような茶道を嗜んだことのない者でも、茶道の国の一員だと意識する時には、背筋がぴんと伸びるような感覚を覚えるのである。

いつごろ日本に茶が伝来したかは、実はよく分からないらしい。平安時代の末期、当時は南宋であった中国に留学した栄西禅師が、喫茶の習慣を日本へ伝えたと言われているが、茶そのものは、おそらく遣唐使の往来によって奈良時代には日本へもたらされていたのだろう。

ただ、茶が生活の中に定着するには、茶葉だけでなく、茶の苗木があってそれを人々が栽培するまでの「必要性」がなくてはならない。そこで禅寺などの修行者が、眠気防止に茶を求めたという必要性に合致する。もう一方で、茶を薬用の飲料としてとらえる流れがあり、こちらも一種の必要性ではあったが、いずれにしても、様式美を備えた「茶の湯」すなわち茶道に到達するまでには、まだしばらく歴史上の時間を要した。

教科書的な知識に留まるが、茶聖・千利休(1522~1591)の「わび茶」とは、一切の無駄を削ぎ落とした簡素さを旨としている。その思想に則した「茶室」の概念が定着するのは利休より後の時代だそうだが、確かに日本の茶道における茶室は、飛び石を踏み、帯刀を外に置いて「にじり口」から入ると、そこに身分の別を超えた四畳半の「宇宙」が存在しているのだ。

1906年に、ニューヨークで英文によって出版された岡倉天心著『茶の本』では、日本の茶室について次のように締めくくっている。

「茶室は簡素にして俗を離れているから、真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ、人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。十六世紀、日本の改造統一にあずかった政治家や猛き武士にとって、茶室はありがたい休養所となった。(中略)今日は工業主義のために、真に風流を楽しむことは、世界至るところ、ますます困難になっていく。我々は今までよりも、いっそう茶室を必要とするのではなかろうか」(村岡博訳、岩波文庫)

なるほど、その通りだろう。百年前にすでに「工業主義」と言っているのだから、現代ならば何と表現すれば良いのか。

岡倉天心の懸念には大いに共感するのだが、残念ながら自前の茶室を持つことができない私は、茶室で心静かに修養するつもりで、二杯目の番茶をすすっている。 

(埼玉S)