【党文化の解体】第7章(2)

【大紀元日本5月8日】

1.中国の伝統皇暦を「旧暦」もしくは「陰暦」と称し、中国新年を「春節」と称する

1)中国の伝統皇暦を「旧暦」もしくは「陰暦」と称する(続き)

中国の最も古い暦法は軒轅黄帝によって公布されたという。軒轅黄帝は「人文始祖」として尊重されることから、中国人はいかに暦法を重視しているかが分かるだろう。黄帝、顓頊、帝嚳、尭、舜の五人の帝王は暦法に対して改正を行ったことが『史記・五帝本紀』に記載されている。舜の時代から中国人はすでに一年の日数、節気を正確に把握できた。

(イラスト・大紀元)

軒轅黄帝は道家文化の創始者であるため、中国人は太古の昔から道家の陰陽説をたいへん重視して、暦法にも陰陽のバランスが取れた特徴を現している。中国の伝統暦法は陰と陽を上手く併用したもので、単純な陰暦でもなければ、単純な太陽暦でもない。

現代人が常用する西暦は一種の太陽暦(陽暦と略称)で、地球が太陽を中心に公転する周期をベースに計算して、12カ月の区分は月の形の変化と関係せず、単なる名称となる。一方、イスラム教の暦法は代表的な太陰暦(陰暦と略称)で、完全に月の形の変化周期によって毎年を12カ月に区分して、一年を約354日として計算した。だから33年おきに西暦と一年の差が出る。

陰陽のバランスを重視する中国の古人は暦法を作る時に、地球の回転周期と月の形の変化を兼ねて考慮した。「朔の日」(つまり月がちょうど太陽と地球の間に位置する日で、この日は地球から月が見えない)を毎月の一日として定め、毎月の半ばを「望の日」(月が一番丸く見える日)と定めた。そして、閏月を設けることを通じて一年の平均の長さを回帰年に近づけることも実現した。この暦法は「太陽暦で年を計算し、月の形の変化で12カ月を決める」タイプの「陰陽併用」の暦法である。それで、年の設置はだいたい季節の変化に合わせることができ、また毎月の日数は当該の月と対応させることもできた。そのほか、早くも舜帝の時代から、正確に季節の変化を反映する二十四節気も設定された。節気は地球が太陽を中心に公転する時の位置変化に基づいて作られたので、太陽暦の部類に属す。

中国の伝統文化は「天人合一」を重視し、道家は人体を一つの小さな宇宙と考え、天象の観測をきわめて重視してきた。司馬遷は『史記』で「天官書」の一章を設け、星の運行規則、位置および世間に対する影響について詳しく述べた。

十の天干と十二支は五行と対応し、また方位、色、季節、五臓、社会構造などとも対応しているため、易学において物事を予測する時の大切な根拠となる。易学も伝統暦法に基づいて予測を行うのだ。

中国古代において、皇朝が創立された後、皇帝が即位したり、天災や不祥事が発生した時はしばしば、年号を改定したため、中国の暦法には年号も加えられた。例えば、よく知られる「貞観」、「永楽」、「康煕」などはこのような年号である。古代では暦書は皇帝によって公布され、当時の年号とも関連付けられ、政府によって印刷されるため、伝統暦法は「皇暦」と称される。また、最初の暦法は黄帝によって公布されたものなので、「黄暦」とも称される。

皇暦は干支で年月日を計算して、皇暦に二十四節気の期日、日々の吉凶、および冠婚葬祭、儀式祝典、建築、引っ越し、日常生活、祭祀、埋葬などに関連する内容も含まれている。

中国の暦法は陰陽と五行の思想を表し、自然の循環と変化の規則を含んでいる。つまり、中国の暦法は時間と方位、陰と陽が交互に作用した結晶である。同時に、皇暦は道家の文化と中国伝統文化の中の「天地と神を畏敬して、天の時、地の利、人の和を尊重する」価値観を基礎にして、宇宙万物の相互作用と影響、災いと福の転換、王朝交代、循環往復の規則に対する中国の古人の理解をも反映している。

中国の暦法と陰陽五行(イラスト・大紀元)

中国の暦法には陰陽のバランス、天人の合一、未来を予測できるなどの要素が含まれるため、中国共産党が消滅しようとする対象とされてきた。

中国共産党は、政権を奪い取った後、「皇暦」が伝統社会の統治秩序を代表しており、その中に未来鑑定、風水などと関係する内容があるため、「皇暦」を廃止した。それを「皇暦」あるいは「夏暦」と称すると歴史を回顧させる効果もあるため、中国共産党は伝統暦法を「陰暦」と呼ぶように命じた。本来、「陰暦」という呼び方は誤ったもので、中国の暦法は「陰陽併用」なのに、「陰暦」と呼ぶと陰陽のバランスを打ち破ることになる。それにしても、「陰暦」という呼び方にはまだ道家の面影と修煉の内涵が残っているということから、1968年、中国共産党は「四旧を破壊する」名目で伝統暦法を「農暦」と呼ぶように命じた。

伝統暦法を「農暦」と称することによって、暦法は農作業に関する計算以外の使い道を持たず、農耕社会で生みだされた暦法の効用は農作業のみに限られ、農民だけに役に立ち、現代社会の他の人々にはあまり関係がない、というように国民の誤解を招きかねない。このようにして、伝統暦法は中国で非主流にされてきた。

実際には前で述べたように、伝統暦法の効用は決して農業に限られるだけではない。伝統暦法は「天地人」の関係を反映して、十干と十二支を基礎にして、五行の相互作用で毎日の吉凶を決め、天と神を畏敬する気持ちを抱き各種の祭日と祭祀活動を決めた。これら日常生活と密な関係を持つ文化は、中国人に自分の文明を回顧させることができる。中国共産党がそれを簡単に「農暦」と呼ぶことによって、実は、豊かな文化を内包する皇暦を貶して、伝統文化の伝承を断ったことになるのである。今日の若者は旧暦に言及する時、いくつかの伝統祭日があり、農耕に関係があるというくらいしか分からず、その深い伝統文化の内包を知る由もない。そのほか、中国共産党の党文化の中で、農民はよく「政治自覚性」が低い、「封建的で、愚かで無知で、立ち後れている」などといった印象と結び付けられるため、皇暦を「農暦」と称することで伝統暦法を軽蔑することにもなる。

(続く)