【党文化の解体】第7章(5)

【大紀元日本5月29日】

2.伝統的な祝日を廃止、党が按配した「党の祝日」(続き)

六月一日の「児童デー」を祝う国はみな「社会主義」あるいは「元社会主義」国である。「児童デー」の起源ははっきりとされていないが、中国共産党はこの祝日をも「反帝国主義」と結び付けている。中国では、「児童デー」の祝賀活動は婦人連合会の管轄となり、公園に行くとしても、芸術公演にしても、各種行事を学校側が管理し、子供の祝日に子供たちは好きなように過ごすことができず、大人が聞きたがることを言わないといけない。学校の行事は単なる祝賀と娯楽でなく、「五講四美」、「共産主義の後継者になる」、「栄辱を知って六月一日を祝う」などはすべて共産党の各段階におけるそれぞれ異なる政策と要求に合わせなければならない。子供たちは小さいころから、文芸の名目で政治目的を達成しようとする党文化の中に浸されている。また「少年先鋒隊の活動日」、「朗読試合」などがあり、無邪気な子供たちは幼少から仕方なくこのような偽りの儀式に参加せざるを得ない。

これだけでない。六月一日は少年先鋒隊に加入する日なので、小学生は「少年先鋒隊の旗」の下で、「中国共産党の指導を受ける決心を下して」、「共産主義の事業のために一生奮闘する」と誓わないといけない。このように、小さい時から子供たちは中国共産党の邪悪な政治に巻き込まれている。

「七一」はまた一つ訳の分からない「祝日」である。七月一日は中国共産党の創立日ではないが、「共産党の誕生日」に定められた。実際に、中国共産党はソ連共産党のヴォイチンスキーにより一九二〇年八月に創立され、党の名前もソ連共産党に付けられて、当時「第三コミンテルン国際中国支部」あるいは「中国共産党」とも称された。その使命とは、ソ連共産党に託された「中華民国を転覆し、中国国民党を消滅」する無産階級革命である。一九二一年七月に開催したのは中国共産党の代表大会にすぎない。常識からみても、共産党が先にあって、その後に代表大会があるのではないか。

中国共産党第一回代表大会が開催できたのはソ連の経済支援があったからであった。後に売国奴になった陳公博は中国共産党の創始者の一人で、中国共産党第一回大会の代表だった。彼は新婚の夫人を連れて大会のついでに上海で観光して、大東旅館に泊まった。七月三一日、陳公博の隣の部屋に殺人事件が起きて警官がやってきたため、中国共産党は仕方なく大会の場所を嘉興の南湖に変更した。当時、政党の創立は合法的な行為で、警官も中国共産党の代表を逮捕するために来たわけではないが、中国共産党の宣伝で当時の情況を「敵との戦い」というように誇張した。一九八一年、中国共産党史研究室は一九二一年八月当時の新聞を参考にして、中国共産党の創立期日を七月二三日だと推測できて、また『中国共産党史年表』に書き込んだ。

中国共産党第一回全体大会に参加した一部の代表者(イラスト・大紀元)

「七月一日」は「祝日」であり「休日」ではないが、共産党各級の党委員会と中央宣伝部が全力を出して国民を対象に宣伝を行う重要な機会となっている。共産党内部も同じ情況で、共産党員は各種のイベントに参加しなければならず、党の各級の指導者も共産党員らの「党人気質」を強めるために講話をする。そして、共産党加入の儀式もよく七月一日の前日に行われる。このように、社会全体は七月一日を一つの祝日として認めることは、中国共産党が中国を占領することを認めたと同然である。「七月一日」を祝うことは中国共産党の生命力を強化させた。

八月一日の「人民解放軍建軍記念日」は「南昌蜂起」の暴動を記念するためである。実際の情況はどうだっただろう。当時、蒋介石が国民革命軍を率いて一九二六年に北伐戦争を始めた。国民の支持と擁護を得たため北伐が順調に進んで、全国の統一は間もなく実現できたのだ。一方、中国共産党はスターリンの命令を受けて絶えず北伐を破壊し、広東を包囲したので、蒋介石は仕方なく一九二七年四月一二日に国民党の中にいる共産党を排斥する行動を取り、中国共産党は八月一日に武装割拠の「南昌蜂起」を起こした。「南昌蜂起」は中国共産党が自らの軍隊を創建する発端となったため「建軍記念日」と命名された。

北伐期間に、国民革命軍が軍閥と戦っている最中に、中国共産党は農村部で政権を奪う準備をしている(イラスト・大紀元)

「十月一日」は中国共産党が一九四九年一〇月一日に「中華人民共和国」を創立したいわゆる「建国記念日」で、重大な政治の意味を与えられて、ずっと盛大に祝賀されてきた。共産党は宴会、軍隊検閲、花火、パレードを行って、武力を誇示して庶民を震え上がらせたほか、また花火、宴会、園芸などで平和と裕福を粉飾する。天安門広場に孫文の画像を飾って台湾に「統一戦線」の姿勢を見せて、パレードを使って「万民に推戴される」イメージを作る。この日にテレビによく「建国大典」などの映画を放送して、中国共産党が全国を「解放」するための「苦労」を国民に思い出させる。中国を中国共産党が創立した国で、「共産党がなければ新しい中国も存在しない」と強調して、共産党と国家の概念を混淆させて、中国が共産党に作られたと中国国民に思わせる。

実は、今多くの華人は一〇月一日を「中国の滅ぼされた日」と称している。中国共産党の創立以来、中国国民に限りのない苦難を与えた。特に政権を奪い取った後、共産党はおよそ八千万人の中国人を死亡させて、数百万平方キロメートルの領土を売って、中華文化と中国人の道徳を完全に破壊して、環境生態を取り返しのないほど破壊した。中国人に共産党の創立と発展を祝わせることは、中国人に深刻な苦難を祝わせることと同然だ。

一九四九年以降、中国共産党の迫害によって死亡した中国人の数は、第一次と第二次世界大戦に死亡した国民数の合計をも超えた(イラスト・大紀元)

中国共産党が「メーデー」、「国慶節」を七日間の大型休暇に設定したので、中国人はよくこの二つの大型連休に旅行、結婚あるいはその他重要な活動を行う。旅行、結婚、重要活動は人に素晴らしい記憶を残すため、数年後に写真を指して、「これは××年の『建国記念日』の時に撮った写真だ」と話す場面も想像できる。それによって知らないうちに、中国共産党の祝日は国民の生活の中の重大な活動と結び付けられることになった。

(続く)