【党文化の解体】第7章(11)

【大紀元日本7月11日】

5.干ばつ対策、洪水対策、自然と闘う、共産党の指示に従って戦う、階級闘争の観念を持つ

1)干ばつ対策、洪水対策、自然と闘う

自然災害に言及すると、中国人の脳裏にすぐ干ばつ対策、洪水対策のような字句、および人間の肉体で堤防の穴を塞ぐ、厳重に防衛して堤防を死守するようなシーンが浮かぶ。共産党が持つ自然に対する態度は、「天と闘い、地と闘う」である。党文化の影響を受けた多くの中国人は、自然災害に対してこのような対抗の方法を採らないと通用しないと信じている。「大自然を改造する」、「自然と闘う」ことは英雄の気概だと称賛される。しかし、人間の肉体で洪水と闘っても、洪水はやはり堤防を突き破ってしまうので、人間は大自然の前で決して天下無敵ではない。

自然災害に対して、中国古代の「大禹治水」の物語と都江堰の工事は後代にとても良い啓発を残してくれた。「大禹治水」の物語に、禹の父である鯀は「塞ぐ」方法で洪水を治めようとして、九年経っても洪水は治まらなかった。大禹は「水路の流れをよくする」方法を採って治水して、山にぶつかると山を開いて、坂にぶつかると堤防を築いて、水路の流れをよくして、流れの勢いに沿って導いて、最後、洪水を海に導くことに成功した。

国連教育科学文化機関に「世界文化遺産」と認定された中国古代の水利工事「都江堰ダム」は、人類文化の精華と称されている。川西平原に都江堰があってこそ、水害が水利に変わって、肥沃で豊かな「天府の国」ができた。最も不思議なのは、今まで二二〇〇年余りも経て、都江堰ダムはずっと川西平原を潤している。世界中これほど長寿な工事はない。

都江堰工事とは、岷江の真ん中に水流を分ける堤防を作って、岷江を内江と外江に分けることである。この堤防は洪水を遮断するのでなく、川の中で洪水を二つに分けて、洪水期に外江の水量を六割にし、内江の水量を四割にし、渇水期に逆に内江の水量を六割にし、外江の水量を四割にする。内江に入った水は「宝瓶口」を通して東へ流れて、川西平原を灌漑することができる。更に、宝瓶口に流れ込む水量を抑制するために、魚嘴分水堤の後部に洪水を分流させる水槽、および「飛沙堰」という放水路を作った。内江の水位が高くなる時、洪水は水槽を通して、飛沙堰を越えて外江に入って、内江両側の陸地はこれで氾濫から免れる。飛沙堰を越えて外江に流れ込む水流の渦巻きがあるため、宝瓶口付近で泥の沈積は避けられた。都江堰工事は中国古人の「天人合一」、自然に順応する思想を充分現している。つまり、大自然と対抗せず、巧みに自然の力を利用して害を有利の方向に変えて、自然と調和をとりながら共存することである。

現代の西側諸国も「分けて蓄える」方法を採って洪水の危害を軽減させ、社会、経済、生態環境に対する破壊を最小限に抑えて、洪水退治のコストも最低限に抑えた。つまり現実に応じて、洪水を有利な方向に導く方法である。一般市民にとって、一番良い洪水対策とは、家を離れる前に事前に保険に加入して家財を保全し、できるだけ損を減らすことである。中国共産党のように大自然と対抗して、自然の規律に逆らって盲目的に戦うことをしない。

中国古人の認識によると、天災は国が道に外れているという天の警告であり、為政者と一般庶民が悔い改めない限り更に大きな災難が振る掛かるというものである。商湯が王位についた時、天下が大干ばつに遭ったので、湯王は桑林に祈祷の壇を設け、天に自分の行為を反省し、災害はそのために緩和された。これが典故「湯王の桑林の祈り」の由来である。

大禹治水、都江堰、湯王の桑林の祈りなどは、中国の伝統文化における天災に対する態度を伝えている。つまり情勢に応じて有利な方向に導く、徳を修めることで厄を払う、道義と自然の法則に順応することである。一方、中国共産党は無神論を信奉して、ずっと自己を「偉大、栄光、正確」と誇示して、もちろん自然災害をその暴政に対する警告だとは思わず、更にそれによって過ちを改めようもしない。また、国を治めるにおいても、中国共産党は闘争思想を深く受け入れて指導しているため、自然災害に対しても対抗の手段を採る。

唯物論の影響で中国共産党は自然界が持つ経済利益だけに目が眩んで、客観的な生態規則を無視して、大自然を改造できる、利用できる対象としか見なさない。このような意識のもとで、共産党はとても「大規模な工事」を行うのを好んで、よく全国民を動員する。「天下無敵」の姿と「お日さまでもお月さまでも交換してやる」の大胆さを国民に見せるために、中国共産党は愚かに「湖を囲んで開墾する」、「林を燃やして開墾する」、「除草して開墾する」工事をやって、中国国民に計り知れない損をもたらし、生態をとことんまで破壊した。

揚子江の例を挙げよう。中国は古来より黄河を代表とする川の水害があるが、揚子江上流の原始林はおよそ四千億トンの貯水能力があるため、揚子江はめったに水害が起こらない。中国共産党の乱伐によって、揚子江の貯水能力が一千億トンまで激減して、三千億トンの貯水能力が中国共産党によって破壊された、これは、三峡ダム十基(三峡の貯水能力は三百億トンにすぎない)に相当する。中国共産党は湖を囲んで開墾したため、揚子江中、下流地区で五十年の間に、消えた湖の面積は一万二千平方キロメートルにも及んだが、これは、世界五大淡水湖の合計面積をも上回る。治水の管理は、植樹して造林し、国土を涵養しつつ、「湖を埋め立てて開墾する」人口破壊的な方法を放棄するだけで、充分に実現できたのだが、中国共産党の党文化の辞書に「自然に順応する」という言葉は存在しない。

内モンゴルで、中国共産党は千年以上前からあった植生を燃やして、種をまいて農作をする。最初の三年間、千年も蓄積していた腐植質層があるため、肥料を使用しなくても豊作になった。しかし、うまいことは三年しか続けられず、農作物に水と土を固定させる機能を持たないため、大風に吹き飛ばされ、大雨に洗い流されて、土地は迅速に砂漠化した。広い千年の草原は三年の開拓によって完全に破壊されて、子孫に広大な砂漠と天を覆い隠すような砂嵐しか残していない。

中国共産党の新疆兵団は、アルカリ土壌を農作地にするため、1ムーあたりの土地に数千立方メートルの大量の水を費やして、土壌の中のアルカリ分を洗い落とす方法を採った。水で土地を繰り返し浸して、土壌に含まれた大量の水が、耕作地層の中のアルカリ分を土壌の深層部分にもっていくというものだ。しかし二、三年後、地下水位が上昇することに伴って、アルカリ分が再び地表まで持ち出されたため、耕地は使えなくなり、もともとあった植生は死滅して、一面の砂漠だけを残すことになった。中国共産党の無謀なやり方によって、一九五十年代だけで二百万ムーにもおよぶ砂漠が作り出された。タリム川の水位が下がって、最終的に水が枯れて、もともとあった川沿いのオアシスも砂漠化して、また一つ挽回できない生態災難を人為的に作った。

これだけに止まらない。原子爆弾を使ってヒマラヤ山脈に幅五十キロメートルの突破口を作って、インド洋上の暖かい湿気をネパール経由でチベット高原に吹き込ませるような気の狂った提案を出したいわゆる「科学者」もいる。その考え方の根源も「自然と闘う」思想である。

このような思想のもとで、中国人は経済利益または政治目的のために、節度も失ったほどに自然環境を破壊して、今日中国各種の自然災害と環境問題を招いた。洪水と干ばつの対策を検討する時、多くの人は工事の規模の雄大さだけに注目して、自然災害を招いた原因を見落としている。実際には、中国現在の各種の環境問題を作り出したのは中国共産党の「自然と闘う」党文化にほかならない。

(続く)