【党文化の解体】第8章(5)

【大紀元日本9月11日】

1.誰に対しても警戒心を持ち、言葉に闘争意識を帯びる

2)闘争意識を持つ言語

(1)言葉中の闘争意識の成因

「誰に対しても警戒心を持つ」と同じように、「言葉に闘争意識を帯びる」ことも中国共産党の闘争哲学と実践の産物である。中国共産党から見ると、暴力は一種推奨できる性格である。中国共産党の闘争哲学は教科書、映画、テレビ、文芸作品、歌、漫画などを通じて、無意識のうちに代々中国人の頭と心に浸透したものだ。思想の中に暴力、憎しみを注ぎ込まれたら、必ずや言葉と行動に反映される。だから、中国人の言葉の中の闘争意識は、中国共産党の暴力哲学、暴力文化と暴力的な実行が中国人の内心にもたらした本能的な反応である。数十年の生活と教育の中、思想の面でも社会現実の面でも、中国人は闘争の影響を大いに受けて、その後遺症は言うまでもないものである。

七、八年おきに行われる政治運動の中で、暴力の言葉は至るところに溢れた。中国共産党のメディアに最も多く使われる言葉は「批判」、「闘争」、「打倒」、「叩き潰す」、「一掃」、「牛鬼蛇神」など極めて攻撃的な表現で、このような暴力的な言葉は社説、評論、批判文章に多く現れる。例えば、どんな「×××の魔手を断ち切る」、「社会主義に反対する者の背骨を潰す」、「××に決して良い結末がないぞ」、「油で揚げる、火で焼く、皮を剥いて筋を引き抜く」、「敵が永遠に立ち直らないように、打ち倒してから背中を足で踏む」など暴力、脅しに満ちた語彙である。このような暴力言葉を通じて、当局は大衆を脅かして従順にさせ、恐怖の雰囲気を作る目的を達成した。暴力の言葉はメディア、公文、教科書、文芸作品を通じて日常生活に浸透して、中国人の話し方を大いに変えた。

中国共産党が発動した残酷な政治闘争の中で、人間の本性の中の悪い部分が引き起こされた。悪辣に、手段を選ばずに相手を攻撃して中傷する悪党は、よく指導者と組織に好かれて昇進するが、誹謗されて攻撃されても弁解できない人たちはよく悲惨な結末を迎えている。闘争で素早く反撃して受動的に懲らしめられないように、国民は口達者になるように頑張る。今日まで来て、声が大きい人が勝つのは国民の本能的な反応になっている。

言葉の中の闘争意識は党文化に漬かる人の不安を反映している。正常な人類社会で、人々は「人からされたくないことは、人にもしてはならない」基準を守って、相手を虐めることも考えずに相手に用心する必要もなくて、ずっと落ち着いた心境を保つことができ、相手と言葉の争いもしない。しかし、党文化に漬かる人は虐められるのを心配して、実際の行動で、または口争いで相手に勝って心の不安を解消させようとする。共産党は弱肉強食の法則を吹聴して、もともと調和がとれている人間関係を闘争関係に変えて、闘争に勝てるかどうかは安全度合いの評価指標になった。そのため、口争いに勝つ人は頭脳明晰で人よりも一段抜きんでていると思い、心の中ではうぬぼれている。

(2)闘争意識は次の世代に継がれていく

今日になって、闘争の歴史はすでに終わったと思う人もいる。思惟の習慣は一旦形成されると変え難いものである。また、言葉というものは安定性を持っており、形ができた言葉システムは若い世代の習慣になる。言い換えると、子供が話すことを習う過程は、話し方、考え方を習う過程でもある。保護者、教師、および社会全体が持つ闘争思惟は、形を変えて若い世代に継がれていく。今日の子供は幼いが財産の比べ合いをして、貧乏人を軽蔑して嫉妬心が強いのは、みな闘争心理の現れである。深く考えてみると、「言葉の中に闘争意識を帯びる」現象は、中国共産党統治のここ数十年の命脈である。

闘争の言葉を下記のように分類できる。

1.弱肉強食の型

例の一、「最近、左派と右派が一緒に造反するという不思議な現象が起きた。真珠を魚の目と分別しないといけない。左派にしか造反を許可させない。右派は造反すると直ちに鎮圧してやる! これは私達の論理で、どのみち国家機関が我々の手に握られているから」(清華大学付属中学校の紅衛兵の壁新聞、一九六六年)

例の二、「私は公務員なので、彼を殴っても私の勝手だ。彼に怪我をさせたら十万元(日本円約140万円相当)を弁償し、打ち殺したら二十万元をあげる」(二〇〇四年、ある民工は、自分の妻が暴力を受けたために、「公務員」と自称してその男を殴ってこのような発言をした。彼の発言はその後、重慶市万州で起きた数万人参加の大規模な抗議事件の導火線となった)

例の三、「不幸にも、中国で生まれるからいけないのだ」(二〇〇五年年末、メディアの取材を受け、中国で炭坑事故がよく起こる問題について言及した際に何祚庥院士の発言)

その他、「台湾を焼いて焦土にする」も、典型的に強い武力に頼って弱小を虐める心理状態の反映である。

2.嫉妬型

例えば、「無産階級が共産主義的革命において失うものは、受けている束縛しかない。無産階級が得るべきものは世界である」(『共産党宣言』)。この言葉は典型的なルンペンプロレタリアートの心理状態を反映した。世界を転覆せてから、「プロレタリア」は火事場どろぼうを働くことができるのだ)。

ほかの例もある。「たいしたことはないだろう」、「少しも珍しくない」、「新年の時、どの家もギョーザを食べるだろう(他人に良い事があれば、新年を祝う時にギョウザを食べると同じくたいしたことがなくて、羨ましいことでもない)」、「あなたしか適任できないのか(見せびらかすことは何もない、実は私はあなたより適任)」。

3.真っ向から対決する型

例えば、「打たないと相手は倒れない」、「東風は吹いて、陣太鼓を叩いて、世の中に誰が誰を恐れるのか」、「俺とやると苦戦するぞ」、「私と闘うか? 絶対つらい目を遭わせてやる」など。

4.自分を貶してから相手を貶す型

このような言葉策略を使う人は、先ず自分(或いは全員)を貶して、それから思い切って相手を非難する。

例えば、批判される時、中国共産党はよく、「階級社会の中で、道徳は支配階級のためにサービスするものだ」と言って弁解する。つまり、「資本主義国家の道徳、人権、宗教信仰、報道自由はすべて「偽り」で、「ブルジョアジー」のためにサービスするものだ。それならば、中国共産党のいわゆる「社会主義の道徳」、「中国特色を持つ報道自由」は共産党統治のためにサービスするのも当然のことだ。

また、「浮浪者の私には恐れることがない」の言い方も一例である。

5.自分は利益を得られないのに、人に損を与える型

共産党の闘争哲学が最高峰に発展してから、一種の「共倒れ」の病的心理になる。

例の一、「核戦争について我々は経験を持っておらず、どれくらい死ぬかは知らない。半分の人口が残れれば一番良い、三分の一が残っても悪くない。二十九億人口に九億が生き残れれば、数年後また国を発展できる。これを対価に資本主義を完全に消滅して、永遠な平和を手に入れられて、悪い事ではない」(毛沢東)

例の二、中国共産党の遅浩田将軍は『戦争は遠くない、戦争は中華世紀の産婆だ』との著作に「いずれにしても、中国共産党は歴史の舞台から降りない! 全世界ないし地球と共倒れになっても、共産党は歴史の舞台を降りない!! 今日、核兵器は世界各国を一つの運命共同体にさせたので、死ぬなら一緒に破滅しよう」と宣言した。

また、「私の生活はつらいが、あなたにも楽をさせない」、「私は死ぬとすると、あなたを生かせない」など。

6.自暴自棄型

このタイプの闘争言葉に非理性的、自分をも滅ぼすような特徴がある。このような話し方をする人は一種の「盲目的に闘う」意識に支配され、守り続ける理論はいかに可笑しいかも問わず、とにかく死ぬまで諦めない。自分に対しても非理性的で無責任である。

例の一、「困難は怖くない。他国は中国に対して経済封鎖を勝手にしろ。八年十年封鎖する間に、中国のすべての問題は解決できる。目の前の困難どころか、中国人は死ぬことさえ恐れていない……」(毛沢東)

もっと多い例、「私はこれで良いの」、「あなた、私をどうしようとするの」など。

上記の例から、共産党の統治策略の変化に従って、国民の会話の内容と言葉遣いも変わってきたが、中の「闘争意識」は変わっていないものだ。

率直な言葉はすべて闘争意識を帯びるとは限らない。「忠言耳に逆らう」のいうように、善意の言葉は耳に逆らうものだ。肝心なのは、話す時に善意を持っているか、それとも相手を貶して非難して、打撃を与える企みを持っているかである。

(続く)