【党文化の解体】第8章(14)

【大紀元日本11月14日】

5.混同された党と政府、国、民族の概念

中国共産党は権力を奪い取ったことを「建国」と称して、まるで私たち五千年の歴史は地球上に存在したことがなかったように、「救世主」と「創建者」の姿で中華大地に数十年間の宣伝を始めた。そのため、政府は党によって創建されて、永遠に変わらない政府となり、国家は党によって作られてまた永遠に指導される国家となり、民族は党に救われてまた完全に代表される民族となる。共産党がなくなったら、まるで政府は「無政府」となり、国家は混乱し、民族は亡国の民になるようだ。党は自らを「至高無上」の権威であると規定し、「政府」、「国家」と「民族」をも凌駕する。

党の統治を固めるため、中国共産党は厳密に社会の運営と中国人の生活の各方面を統制する。党の機関は中央から辺鄙な田舎までどこにも存在し、人殺しから自然と闘うまでどんな悪いことでもやり、庶民の祝祭日から子供を何人作るかまで何でも干渉する。党のいるところにおり、「政府」、「国家」と「民族」は党の手中にある操り人形となる。

党は政府、国家、民族とまったく別の存在ということを、今日の多くの中国人は分からないのでもないが、心の中で党の影響はこれほど大きくて綿密で、「党」は中国人の運命を左右する呪いとなっている。共産党を離れた政府、国家と民族は水を離れた魚のように生きられないと多くの国民が思う。そこで、党、国家、政府、民族の概念が混乱して、中国人は国、民族に対する愛を共産党に移した。共産党に反対する行為は、政府を反対する、中国を愛さず、中国を反対して裏切る、中国人と中華民族に恥をかけるのと同じく思われる。党は政府の代弁者、国家のシンボル、民族の代表に化けて、一言で言うと党はすべてとなった。

1)「一切」である党

(1)党が自任する「中国人の親愛なる母」

孔子が曰く、「親や兄に仕えることは仁愛の元となる」。親に仕えることは「孝」で、兄に仕えることは「悌」である。「孝」と「悌」は中華民族の伝統的美徳で、孝道の中で母への親孝行は最も際立つものである。共産党は自分を母のように例えて、国民に孝行をしてもらおうとする。「醜い母でも息子は嫌わない」というように、いくら悪事を働いたとしても、中国国民に党を母のように敬愛し守ってもらおうとする。

(2)「人民を養育した」と自称

党が耕作もせず布も織らず、人民を養育することは可能だろうか。 反対に、人民が党を養育していて、国民の税金は共産党を養育しているのだ。

しかし共産党は国家機関を通して全国民の財産と資源を制御して、全国の財産を「共産」した。国民に属するものを奪ってから少しだけ国民にあげて、そうすると国民は就学、就職、結婚の機会、住宅、年金などすべて共産党がくれたものだと思うようになった。「共産党は母親である」意識は長期にわたって国民の頭に注ぎ込まれて、国民は本末を転倒して、「共産党がいくら悪いと言っても、結局それは私に対して養育の恩がある」と思う。実は正反対に、正常な社会に誰も就学、就職、結婚をして、それは正常な生活状態で、すべては国民自身が労働を通じて手に入れたもので、どの党の功労でもない。中国人の生活の改善は自身の勤勉な労働のおかげで、決して共産党のおかげではない。その上、共産党の搾取がなければ、中国人の生活は間違いなくもっと良くなる。共産党がない国では、より多くの子供が学校に行くことができ、より良い仕事とより大きい住宅があって、より多く年金をもらえるのが事実ではないだろうか。

(3)生活の糧を統制する党

すべての国民がこの外来の、邪気に満ちた「母親」を盲目的に信じるとは限らない。しかし、「三日食べないと空腹感で落ち着かなくなる」というように、「母親」は言うことを聞かない人に対して、懲らしめる方法を持っている。仕事を与えずご飯を食べさせなかったら、あなたはどうするのだろうか。 「改革開放」の前まで共産党はすべての生産手段を独占して、就職の機会は全部党に握られたため、共産党は自分に仕事を与えていたと国民は錯覚する。今日でも、気が向いたら共産党はいつでも道理無しに私たちの仕事を奪うことができる。――党はもともと私たちの仕事を奪う権利があるが、しかし共産党はそうしていない。――これで自分の仕事を奪っていない共産党に国民がかえって感謝する。

しかし、「党はもともと私の仕事を奪うことができる」という前提自身がおかしくてでたらめだ。心理学から見て、党は仕事の機会を厳しく握るほど、共産党こそ自分に生活の保障を与えてくれたと国民が思う。国民は仕事をして食べていかないといけないので、国民は党を「仕事の機会、食べていける可能性」と同等に見なす時、当然「党に反対する」ことは「人民に反対する」ことになった。

(4)「先進」を代表する党

共産党は「先進的な人」と「後れている人」を区別することにとても熱中して、「後れている人」は闘争の対象となる。党員は必ず「先進的な人」でなければならならず、「先鋒部隊」と「社会のエリート」と見なされて、「先進的な生産力」と「先進的な文化」を代表する。そこで、共産党は国と民族の「大黒柱」、「未来」、「未来の方向」になった。このような立派に聞こえる宣伝の下で、悪党はとても良い政党に変身して、国民もいっそう共産党に依存するようになった。

(5)「出世の道」である党

社会全体の権力は党の手一つに握られて、共産党と青年団に加入しないと幹部に昇進できなくて、ないし小学生は少年先鋒隊に入れないと周りに笑われる。それで、党の組織に加入することは出世の前提条件となって、党は国民の仕事、生活としっかり結び付けられた。

(6)日常生活に浸透する党

党支部書記は実はまともな仕事を持たず、党の方針と政策を宣伝する以外、主な仕事は職員を思想面で統制することである。思想面というと、みんなが党の周囲に団結しているかを監視するだけでなく、隣人との付き合い、人間関係の紛糾、職員の家庭内トラブルも含まれる。それで、党は国民の日常生活ないし私生活にまで進入した。

(7)自らを「道徳の権化」だと吹聴する党

共産国で普遍的に道徳が低下するのは否定できない現実で、特に現在の中国で、道徳の危機は社会の共通認識になっている。しかし、共産党はずっと自分を道徳の権化だと吹聴してきた。どの時期にも「三大紀律、八項注意」、「雷鋒を学ぼう」、「五講四美」、「精神的文明」、「三つの代表」、「徳を以って国を治める」、「八栄と八恥」、「調和が取れた社会」など道徳的な標語があった。

提唱された道徳観はただ、党に忠誠を尽くさせて党を守るための道徳観で、共産党自身は実は道徳を重んじていないため、中国社会の道徳水準は驚くほど低下して、今日では心が痛むほど乱れている。

共産党が行った道徳宣伝を見れば、共産党は道徳をしっかり守っているように国民が錯覚する。学校で道徳面の授業は政治的な授業の類に属し、党が人々に道徳を学ばせているように見える。道徳宣伝の最終目的は国民に「党の言う通りにさせて、党に従わせる」ことだが、幼いから頭に入れられた「党は道徳の権化」との印象が深いため、党自身はやはり良い政党で悪事は一部の人によって働かれた、と国民が思う。これで、共産党は自分がもたらした道徳の低下から自らを剥離することに成功した。

「優秀な道徳、高尚な風格」(イラスト・大紀元)

(続く)