翻訳は怖いのである

【大紀元日本5月4日】我輩は平成の猫である。名前は、どうでもよい。

百年ばかり前に、夏目漱石先生が我輩の曽祖父のことを『吾輩は猫である』という小説にしてくれた。我輩もそれを人間語で読もうとしたが、ストーリーがさっぱり分からない変な小説なので、たまらず途中で投げ出した。

後で聞いたところ、あれはストーリーを読む作品ではないらしい。猫の目を通して見た人間の様子を縷々つづったもので、描写の面白さを楽しめばそれでいいのだという。人間が楽しむための小説など、猫の我輩に分かるはずがない。漱石先生には悪いが、大きなお世話だ。

本来の対象が我輩とは別種の動物なのだから、仮にこれを猫語に翻訳しても、我輩には読めなかっただろう。では、同じ人間同士ならばどうだろう。日本語を外国語に翻訳、あるいは外国語から日本語に翻訳したものが、その言語を母国語として解する人間に理解できるのか。我輩の見るところ、それもちょっと怪しい。

漱石先生のこの小説のタイトルを中国語に翻訳すると、なんと『我是猫』だという。これでは、仮に元のタイトルが「僕は猫です」だったとしても、同じ翻訳になるではないか。

「吾輩」も「である」も無視し、真ん中の「猫」だけとりあえず残して、はてさて何の意味があるのやら。それでは、まるでただの猫だ。失敬千万。猫のなかでも選ばれた身分である曽祖父の名誉回復をしたい気分になる。

人間のつかう言語間の翻訳は、時に表面的な意味だけを訳して、その原文の「空気」を殺していることが多い。何を言っているのかだけ伝えてあとは用済みとする翻訳は、実は意味も含めて全然伝わっていない。これが、はなはだ怖いのだ。

そう不平を並べていたら、ふと気が変わった。『我是猫』でも何でも、まあよかろう。なにしろ我輩は猫なのだ。犬ならば人間に忠義の筋を通すところだが、猫にはそんなものはない。

先ほどの不平も、もう忘れた。忘れたことさえ、忘れた。それで『猫』がストーリーのない小説である理由が、ほぼ分かった。

 (鳥飼)