【漢詩の楽しみ】 隋宮(ずいきゅう)

【大紀元日本5月27日】

乗興南游不戒厳
九重誰省諫書函
春風挙国裁宮錦
半作障泥半作帆

興に乗じて南游(なんゆう)すれども、戒厳(かいげん)せず。九重(きゅうちょう)誰か省みん、諫書の函(はこ)。春風、国を挙げて宮錦(きゅうきん)を裁(さい)す。半ばは障泥(しょうでい)となり、半ばは帆となる。

詩に云う。隋の暴君・煬帝(ようだい)は、興に乗ずれば江南の地へ遊びに出かけて、政務を怠ること甚だしい。朝廷で、上奏文の箱を開いて見る者など誰がいようか。春風の季節には、全土から集められた最高級の錦が裁断される。それが何に使われるかというと、半分は馬具の一種の泥よけとなり、半分は船の帆布にされてしまうのだ。

晩唐の詩人、李商隠(りしょういん、812~858)の作。同じ作者に「隋宮」という同名の七言律詩もある。李商隠のみならず、中唐以後の詩人にとって、前王朝である隋を滅ぼした煬帝は作詩上の主要なテーマとなっていた。

唐の最盛期は、すでに過ぎていた。若い頃は英明であった玄宗も、年老いてからは楊貴妃に耽溺。その隙を突いて安禄山が反乱を起こしたため、玄宗は帝都を捨てて四川に逃げるという失態を演じてしまう。

9年に及んだ乱の平定後も、唐王朝は140年ほど存続したが、もはや創業期の栄光は陰をひそめていた。その生々しい実体験が、奢侈と酒色に溺れて国を滅ぼした煬帝のイメージに重なったのは無理からぬことであろう。

ちなみに煬帝の父である楊堅(ようけん)は、文帝と諡号されたように、実力試験である科挙の採用をはじめ、唐にも引き継がれる政治体制を確立するとともに、仏教文化の隆盛にも尽力した名君であった。

偉大な父は、愚息にとって迷惑な存在であっただろう。ただ、その反動のあまり国と人民を疲弊させた罪は許しがたく、楊氏でありながら煬帝(ようだい)という不名誉な異字異音を当てられて、21世紀の現在も蔑まれている。

(聡)