全人類への光明 神伝文化を復興する善の力

【大紀元日本4月2日】漢語における「文化」の原義とは何か。

そのことを説明するため、あえて同類語を挙げる。文化とは本来、教化、徳化、感化などのように、人類を善へ導く、動的かつ積極的なムーブメントのことである。今日の日本語ではその概念はほとんど失われたが、そもそも文化とは、名詞ではなく、動詞にちかい性質をもつ言葉だったのだ。

つまり文化には人を善へ導くという理念があり、それを実践する方法として音楽や舞踊、あるいは絵画や書などの芸術が探求された。少なくとも中華五千年の文明のなかでは、そういう位置づけであった。

ところが、いつしかその理念が欠落して善悪の分別もなくなり、人間の欲望や執着も含めた情念を表現するものなら何でも「文化」にしてしまった。その結果、若者文化、大衆文化、オタク文化など、意味不明で奇怪な「何でもあり文化」が生まれたが、それはもちろん本来の文化ではなく、時代の風俗といったほうが正しい。また、人間が余技として行う趣味や愛好も、文化と呼べるものではないのである。

本物の文化を復興するには、正統な伝統文化に回帰しなければならない。

道徳が退廃した現代において、中国人のみならず世界人類が直面しているこの喫緊の課題を正しく認識している人は、残念ながら多くないであろう。それはまさに、人類の存亡がかかった使命であると言っても過言でないのである。

前置きが長くなったが、いたずらに不安をかきたてることが本文の意図ではない。すでに人類には、輝かしい光明が射している。神韻芸術団による世界ツアー公演がそれである。

米ニューヨークに拠点を置く神韻芸術団は、現在、神韻ニューヨーク芸術団、神韻国際芸術団、神韻巡回芸術団の3団からなっている。各団の団員は、ダンサー・歌手のほか、専属オーケストラや技術スタッフも含めて約90人。現在、各団は欧州、北米、アジアのそれぞれのツアーの最中にある。日頃から十分に鍛錬された若い団員たちは、疲れも見せず、毎日のステージを精力的に行っている。

神韻公演の演目は、全てが中国伝統文化に基づくもので、人間が遵守するべき徳目が具現されている。美しく優雅な中国古典舞踊、華やかで可憐な民族舞踊、力強さと躍動感あふれる男性ダンサーの舞踊などが目白押し。一流ソリストによる中国語歌曲の独唱は、字幕で日本語が表示されるので、歌意の理解に心配はない。

また舞踊劇には、歴史上の英雄に題材をとったものや、現代の中国に実在する勇気ある人々の物語などがあり、観客はただ感動と興奮に酔いしれる。

これら神韻の演目すべてが、神伝文化である中華五千年のエッセンスを凝縮したものであるがゆえに、乾いた大地に慈雨がしみこむように、世界各国で歓迎されるのだ。

そして鑑賞の後には、一人ひとりの観客が、あふれるほどの感動とともに、昨日とちがう新しい人生を歩み出していることに気づく。驚くことだが、大紀元がインタビューすると、「神韻を見て、体調が良くなった」という観客も少なくないのだ。

公演は毎年行われるが、演目は全て一新される。そのため、毎年必ず見るという熱烈な神韻ファンも多い。それにも増して、神韻が全人類への光明であることは神韻公演を実際に見た人だけが知り得るということからしても、今年のこの一回が、全ての観客にとって生涯逃しがたい貴重な機会になることは疑いない。

昨年12月から始まった今年の世界ツアーも、いよいよ終盤に入った。評判が評判を呼び、各地での人気は沸騰するばかり。台湾や米国の多くの開催地では、公演を前にして1枚のチケットも得難い状況になっている。なかには、神韻公演を一度見て、感激のあまり来年を待たずに二度目のチケットを買い求める観客も少なくない。

なぜ、それほど多くの人々が神韻に熱狂するのか。

その答えは、神韻公演の会場のなかで、金色の光を浴びた人だけが分かる。

はなはだ不親切な説明であるが、神韻のすばらしさを伝えることは、本文には到底不可能であることをお許しいただきたい。本物の文化を知るには、本物を見るしかないからである。

神韻劇団の公式ホームページ:http://ja.shenyun.com/

 (穆梅香)