人類史のなかの神韻(三)

【大紀元日本1月2日】夏目漱石の大陸旅行は、明治42年(1909)の9月2日から10月17日にかけてである。『満韓ところどころ』は、帰国後すぐの10月21日から12月30日まで、51回にわたって朝日新聞に連載された。

大連から始まった漱石の旅は、当時の満州から朝鮮の各地に及んでいる。ところが作品の『満韓』には朝鮮半島に関する記述が全くなく、漱石が撫順の炭鉱の坑内に入るところで、ぷつりと切れて終わっている。

漱石研究のために紙幅を割く予定はないので、なんとか中国人論という本題に戻さねばならぬが、そもそも漱石の『満韓』は、中国や中国人の様態を正確にルポして日本の読者に供するものではなく、箒で床の塵を集めるように、旅中の目に映ったどうでもよいことを書き散らした感を否めない。

この『満韓』に限って言えば、漱石は中国人の蔑称であるチャンなどの言葉を、悪気もなく多用している。ロシア人を、同じく蔑称である露助とも呼んでいる。 

それでいて漱石は、自分が日本国を代表するかのようなナショナリスティックな表現などは一切入れていない。また、タウンゼントのように中国人そのものを悪評した部分は、実はほとんどないのである。むしろ肉体労働者である苦力(クーリー)について、そのたくましい働きぶりを褒める描写もみられるくらいだ。

時代は日清・日露の両大戦の後。日本は、形の上では戦勝国だったが、実のところ息も絶え絶えの状態であった。漱石が帰国した直後の10月23日に、伊藤博文がハルピン駅頭で暗殺されるが、そのことは『満韓』のなかに加筆されてはいない。

私にとって、『満韓』を読むのは苦痛である。漱石の他の作品と異なり、全く面白くないからだ。よくもこんな愚鈍な旅行者になりきれたものだと思う。ただ、察するに漱石は、愚鈍な道化役に徹して演じている。中国の民衆という、ばらばらの砂粒を描くには、道化の目に映るばらばらの事象を書き並べていくしかない。漱石を弁護するのが本稿の目的ではないが、『満韓ところどころ』を見ていると、そのような作者の意図がぼんやり見えてくるような気がするのだ。

『暗黒大陸 中国の真実』を著したラルフ・タウンゼントの中国滞在は約3年。それに対して、漱石が『満韓ところどころ』を書いた大陸旅行は、せいぜい1カ月半と短い。

しかし漱石には、タウンゼントが全く持ち得ない、「中国」に関する専門知識が豊富にあった。幼少の頃より、漢学塾の二松学舎で学んだ漱石は、当時、教養ある日本人ならば誰もが持っていた漢学の才を有していたからだ。それは漢詩文を通して得た儒教的倫理観であり、漢字を解する東洋人が広く共感できる心といってもよい。

とは言うものの、漢学の教養のある「外国人」が、走る馬車の窓から景色を見るように現実の中国を垣間見ても、頭のなかで混乱を起こすだけだろう。

古(いにしえ)の聖賢の書物と、現実社会の最底辺でうごめく民衆との差異を、よそ者である自身が安易に結びつけて是非を論じてはならない。漱石は、そう自戒したはずだ。

それを自覚するからこそ、彼は『満韓』を「くだらなく」書いた。タウンゼントと異なるところは、漱石の場合、不潔な中国人を目にして不快になったように見せかけながら、実は、旅行中のほとんどを胃腸の痛みや体調不良に苛まれていたことを飽き飽きするほど書いている点だ。繰り返すが、漱石は、自分の胃痛をうまく使うことで自身を道化役に仕立て、中国人を決定的に否定することを避けたと言えるだろう。

タウンゼントも、漱石も、中国の地表面に生える雑草のような民衆を「見たまま」に書いた。タウンゼントはそれを中国人観の結論としたが、漱石はそうせずに、飽きた玩具を投げ出す子供のように筆を置いた。

日本人である私が、漱石を贔屓目にみることはするまい。ただ、わが夏目漱石ならば、地表からはるか下の深層に、もう一つの中国、すなわち中国伝統文化が豊かな地下水脈となって存在することを認知していたはずだと信じている。(続く)

(牧)