仏教用語と現代表現の“我慢”【中国語豆知識】

①「【我慢】な彼は…外部(うはべ)では強ひて勝手にしろといふ風を装った。」(道草)
②「然しひもじいのと寒いのにはどうしても【我慢】が出来ん。」(吾輩は猫である)
夏目漱石の筆になるこの二つの「我慢」、どうも意味が違うようです。

仏教では、自己に執着する自我意識から起こる心や、人を侮る思い上がりの心を「慢」と呼びました。(現代日本語の「慢心」「傲慢」にその名残りが見られます)そして、それをさらに「慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢」の七つに分けて「七慢」と呼び、「我慢」はその一つです。『正法眼蔵・仏性』に次のような例が見られます。「汝仏性を見んとおもはば、先づすべからく我慢を除くべし」。

そのうち、「思い上がりの心」義が転じて、我意を張り、強情であるさまを表すようになりました。①の「我慢」がそれです。私は幼いころとても強情で、親からよく「我慢な子やな」と叱られていました。ただ、現代語の標準語としては「強情」義の「我慢」は古風な言い方のようですので、現代語としてはその地方の方言だったのかもしれませんが。

「我慢」はさらに、「強情」義が転じて「耐え忍ぶ」義が生まれました。強情であることをプラスに捉えれば、「耐え忍ぶ」となるわけです。②の「我慢」がそれです。「大目に見る」義の「今日だけは我慢してやる」などというのも、この「耐え忍ぶ」義の延長線上にあるものと考えていいでしょう。

ところで、中国語では、仏教用語としての『我慢』はあるものの、それが日常用語として派生することはありませんでした。現代中国語に『我慢』という表現はありますが、これは「私は遅い」という意味の主語+形容詞の文と見なされるものであって、本来の『我慢』とは全く関係のない表現です。
 

(智)