太極拳の祖師 張三豊

太極拳は現在、健康法として、中国ではもちろん、日本でも多くの人に愛好されています。しかし太極拳は、本来、健康のために行なう運動ではなく、道家修煉者である張三豊によって残された修道法であることをご存知ですか?ここで、張三豊が歩んだ修道の道を紹介しましょう。

幼年時代の張三豊

張三豊は、本名を張君宝といい、宋朝の理宗佑時代 (1247年)に生まれました。5歳の時に目の病気に罹り、なかなか治らず失明寸前になりました。家族は碧落宮の修道者である張雲庵にお願いして治療してもらい、半年かけてやっと元通りに見えるようになりました。このことがきっかけで、張三豊は張雲庵の弟子になり、碧落宮で道教の経典と武術を7年間勉強しました。

求道の旅

南宋の度宗咸淳元年 (1266年)、張三豊の両親が亡くなったあと、彼は故郷を離れて、修道の道を求める旅に出ました。彼は中国各地の名山を遍歴しましたが、結局何も得られなかったので、陝西省の宝鶏山中に隠居することにしました。そこの山の三つの峰がつながっていたので、彼は自分に「三峰居士」という号を付けましたが、修煉界では「三峰」という言葉にはあまり好ましくない使い方があるので、後に「三峰」を「三豊」に変えたそうです。

延佑元年(1314年)、張三豊は、すでに67歳になったとき、終南山に入り、火竜真人に出会い、金丹大道の修煉法を教えてもらいました。そこで4年間修煉に専念しましたが、後に経済的な問題から山中で修煉を続けることができなくなったので、火竜真人から「辰砂点化法」の秘訣を教えてもらって、山から降り、俗世間に戻って修煉するようになりました。俗世間に戻ってからの張三豊は、大河の南北を遍歴し、名山の古刹を行き来して、さまざまな人物と交遊し、拳法や煉丹法を伝授しました。

それから数年後の元朝泰定甲子年(1324年)の春、77歳になった張三豊は、武当山(今の湖北省十堰市にある山)の自然環境が大変気に入った事から、そこで9年間密かに修煉し、やっと成就して仙人の道を得ることが出来ました。

伝説の仙人

 仙人になった張三豊は、130歳のとき、ある日自分はまもなく死ぬと言って息を引き取りました。周りの人が、彼を棺に入れて埋めに行こうとしたところ、棺の中から声が聞こえたので、開けてみると、張三豊は再び生き返っていました。

元朝が滅び明朝になってから、彼は蜀(四川)の太和山の玉虚庵に移って、山の麓の藁小屋で修行を続けました。高齢にもかかわらず、非常に健康な張三豊は、人にその理由を聞かれると、何時も口を閉じたまま何も話しませんでした。しかし、経典のことを聞かれると、いつまでも止まるところをしらずに語りました。

張三豊の声望は朝廷に伝わり、137歳になったとき、明朝の洪武17年に皇帝に招請されましたが、これを断りました。さらに明朝の永楽14年に、168歳の張三豊は明成祖皇帝に招請されましたが、やはり断りました。

太極拳の法理は残されていない

太極拳は張三豊が修道するときに使った方法ですが、現在残されているのは、その練習の動作だけで、その法理は残されていません。これについて、法輪功の創始者・李洪志氏は次のように述べています。「太極拳はいいものだと皆さん知っています。五十年代の中国では既に広範にわたって広がっていました。これは明の時代の張三豊が伝え出したものです。しかし伝わって来たのは動作だけで、人の心に関する法理を伝えていません。つまり彼は修煉を指導し、各次元で如何に向上するかという法を人に残していません。ですから太極拳は病気治療というレベルにとどまり、高い次元への修煉ができないのです」。(『法輪佛法・シドニーでの説法』)

(従真)