【紀元曙光】2020年5月8日

八田與一(はったよいち)は政治家でも学者でもない。見事なほどの技師であり、徹底して現場の人であった。
▼自分の技術の全てを、人の幸せのために役立てようとした。明治19年(1886)金沢の生まれ。同43年に東京帝大土木科を卒業する。八田の最初の任地が、たまたま台湾だったので、たまたま台湾の住民のために働いたが、どの地へ赴任しても八田は大きな成果を上げただろう。八田與一という人の誠実さは、そこにある。
▼台湾は日本統治時代であった。初代民生長官であった後藤新平の任期は明治31年から39年だったが、医師でもある後藤が示したマラリアなどの疫病対策は、後藤以後も継続して進められていた。八田も当初は衛生部門で、都市の上下水道整備に従事する。
▼やがて八田の舞台は、発電や農地灌漑の分野へ移る。竣工当時、世界最大のダムであった烏山頭ダム建設をふくめ、10年がかりで嘉南平野を水路で潤し広大な農地にする嘉南大圳(かなんたいしゅう)の大事業については、日本よりも、八田を恩人と仰ぐ台湾において知名度が高い。
▼八田與一の功績として称賛すべきは、彼の才能ではなく、八田が常に現地の人々とともに労苦の汗を流し、その成果の全てを百年先の台湾へ遺そうとした、彼の心意気だろう。やむを得ず従業員を解雇するにしても、次の就職先の世話をしたという。八田は、そんな人物だった。
▼戦時中の昭和17年(1942)5月8日。輸送船大洋丸が、五島列島付近で米海軍の潜水艦による攻撃を受けて沈没。乗船していた八田與一も海中に没した。享年56歳。