【紀元曙光】2021年2月7日

1906年2月7日。中国北京に、運命を定められた男児が生まれた。
▼愛新覚羅溥儀(1906~1967)。わずか2歳で清朝最後の皇帝・宣統帝となるが、何といっても幼い子どもである。本人に自身の立場が分かるはずもない。
▼最末期の清朝に、幼帝が成長して青年皇帝となる可能性は皆無だった。20世紀の初頭といえば、すでに近代後半であり、旧来の伝統的価値観がことごとく否定され、欧米の文明ばかりがもてはやされた。古典の書物よりも鋼鉄の軍艦を重視した。
▼欧米列強が迫る東アジアにおいては、19世紀に明治維新を遂げた日本はともかく、清朝中国と李氏朝鮮は、その儒教的国家そのものが質屋の古物のような世界史上の奇観であった。1908年10月21日に光緒帝が崩御。翌22日に死去する西太后の指名により、光緒帝の弟の子である溥儀が即位するが、清朝は、もはや風前の灯であった。
▼少年期から青年期までの溥儀にとって、自身をとりまく閉塞感は相当なものだったと想像する。1983年のドキュメンタリー映画『東京裁判』のなかで、裁判の証人として出廷した溥儀は当時40歳。時に激しい口調で「日本軍の強要があった」と述べ、満州国「皇帝」時代の自身に責任はないことを強く主張する姿が映っている。
▼ただ、そんな無力な溥儀にも、清朝王族の誇りがあったことは付記しておきたい。1928年、国民党の孫殿英によって清朝陵墓のある東陵が、すさまじい略奪を受ける。その怒りが溥儀を清朝復辟へと駆り立てた。彼が日本軍を受け入れたことも、その文脈では首肯できる。