【党文化の解体】第2章(8)「宗教自由の虚像を作り上げる」

1-2)-(6) 宗教自由の虚像を作り上げる

 中国のいわゆる「宗教自由」は、偽りの自由であり、その自由には一つの前提条件がある。つまり共産党の指導を受けなければいけない。簡単に言えば、線香を立てて拝んだり、教会に行って懺悔したりすることは自由にできるが、もし、その信仰が共産党の原則や方針と衝突が生じたら、無条件に共産党に服従しなければならないということである。

 偽りの宗教自由は、宗教の世俗化、宗教団体の国家機関化、宗教建築物の商業化、宗教指導者の政治化或いは国家幹部化などの面に現れている。

 中国では、宗教管理局は政府が宗教を支配する部門である。多くの寺院の方丈、道観の神主は中共の幹部でもあり、行政の職位を持ち、給料を貰い、政治協商会議に出席し、公用車両やパソコンを備え、毎週政治学習を行なう。一般の中共幹部と比べて違うところは、彼らは袈裟や道袍(道士の衣装)を着ているという点だけである。寺も道観も彼らにとっては職場に過ぎない。

 

宗教者に対して中共が実施した統一戦線秘策:金銭による買収と武力弾圧(イラスト=大紀元)

偽りの宗教自由のもう一つの現れは、大量にお寺などの宗教施設を建てて、各種の宗教大会を開き、佛像を造り、佛経を印刷するということなどである。こうして人々に中共が積極的に宗教を扶助しているという虚像を与えた。しかし、これらは本当の修行に何の関係もないことである。

 大紀元社説『共産党についての九つの論評』の第六評「中国共産党による民族文化の破壊」の中に書かれているように、「寺院はそもそも静寂で出家の人が佛を拝み、修行する場所であり、あるいは、世の人々が懺悔するところでもある。修行するには、静けさと無為を重んじる。懺悔するにも、荘厳な環境が必要である。しかし今、寺は経済利益を獲得する旅行名所となった。今寺院に足を運ぶ人の中で、精進潔斎してから、佛を敬う心を持って、自分の過ちを反省するために来た人は何人いるだろうか? 表面の形を回復し、その本質を破壊する。これは正に、共産党が人々を騙す戦略である。佛教や他の宗教及び宗教文化はすべて共産党によって壊滅させられた。」

 

寺院は経済利益を獲得する観光名所になっている(イラスト=大紀元)

例えば、中国禅宗ゆかりの少林寺はすでに旅行や映画ロケ地の名所になり、少林寺の方丈は少林文化を売り飛ばし、最近3.5億人民元を費やして清浄の佛地をレジャー施設に変えようとしており、少林寺の「CEO」と揶揄されている。彼は「少林寺も企業の観念を持つべきだ」とし、豪華なスポーツカーを乗り回し、飛行機に乗って世界を周遊しながら、少林寺での各種の大型イベントを画策し、毎日企業のボス、政府高官、海外の知人など様々な社会人の間を走り回っている。彼の生活の中で最も多くの時間を使っているのは、来賓の接待と事務処理である。老祖達磨が伝えた「壁観」(壁に向かって座禅)の修行法に求められる清浄な環境は全く失われた。

 

 2006年8月、江西省化成禅寺の監寺(寺の監督責任者)は「六四天安門事件」の犠牲者のために供養の儀式を行ったため、当局の脅迫を受けて寺を離れざるを得なくなった。桂陽県宗教局の何局長がこの監寺に「あなたは荒淫、酒乱、買春、賭博など、何をやってもよい。だが共産党に反対することだけはさせない」と話したという。

 偽りの宗教自由は、真相の分からない多くの人を中共に操られる宗教組織に入らせた。彼らが日ごろ読んでいる経文は中共に歪曲されたものであり、彼らの正信は中共の世俗的利益に侵食されている。中共はこの方法で佛教、道教などを系統的に破壊した。

 宗教自由を唱えている中共は、共産党の命令に随う悪徳の人たちを寺院、道観の住持や各級宗教協会の責任者に任命した。これらの人たちは、中共の要求に従って国際舞台で中共の「宗教自由」を粉飾し、国内で自分の立場を利用して金銭を集め、甚だしい場合には、荒淫、酒乱、買春、賭博などに走っている。例えば、広州市にある二つの寺院の和尚は、三元里の売春宿で集団売春を行なった。光孝寺、法幢寺及び南山寺の三大古寺の和尚も集団売春を行なった。広東省佛教協会の会長で光孝寺の住職である明生和尚は、寺院の敷地内に「甘露坊」という精進料理のレストランを開設し、遊女のような女性を雇って入り口で客引きさせている。

 中国では昔から神に願い佛を拝む伝統がある。本来なら、寺や廟に行って神佛を拝む人たちはみな、因果応報を信じ、神佛に善を行なって罪を償うことを誓い、敬虔な懺悔の心で神佛の助けを求め、当座の困窮から抜け出したいと願うはずだが、偽りの宗教者は、神に願い佛を拝むことを歪曲し、寺院に多額の金銭を布施すれば神佛のご加護が得られると解釈し、その布施した金の由来を問わない。盗んできたものでも、奪ってきたものでも、或いは収賄や横領の金でも、何でも結構である。このように、神に願い佛を拝むことが、敬虔な懺悔から「神佛を買収する」、「神佛と取引をする」ことに変わった。

 「汚職の官僚は佛を拝み、修行の和尚は売春宿の客に」というような宗教自由の正教に対する破壊力は計り知れない。これによって、多くの人は、宗教は虚偽、金集め、淫乱の組織だと批判している。このような民間からの批判は、中共の直接の誹謗宣伝より影響力がさらに強い。

 中共の儒教、佛教、道教に対する批判は多方面で行なわれている。理論の面では、「科学」の棍棒を振るって儒教、佛教、道教の教えを叩き潰し、組織の面では、宗教団体を改編してその内部に自ら宗教理論を批判するように行わせ、さらに、共産党の内部では、宗教を妖魔化する思想教育を行なってきた。

 このような批判は、長時間にわたって持続的に行なわれ、学校教育、日常生活、各種の政治運動の中にも浸透した。国民に批判の文章を書かせたり、集団学習を行なわせたりして強制洗脳を行なった。しかも、このような批判は全面的な否定方式で、伝統文化を保留する余地を全く与えない。中共は熱狂的な無神論と唯物論の宣伝、伝統正教の妖魔化、政治暴力による威嚇、宗教代理者の配置などの方法を利用して、伝統的な儒教、佛教、道教の文化を壊滅し、共産党の党文化を作り上げた。

 その結果、今では大多数の中国人は儒、釈、道のことをあまり知らず、それは「封建社会の迷信」だと言われたら、すぐ条件反射的に避けるようにする。この状況下では、共産党は何かを否定したい場合、スローガン式の批判で十分に効果が得られる。批判されたことが良いか悪いかの証拠を提示しなくても、国民も納得できるのである。

 (続く)