【歌の手帳】雨空に祈る

 思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞ降る(新古今)

 詞書きに「雨の降る日、女に遣はしける」とあります。雨がしとやかに降る春の日に、作者から離れたところにいる女性を恋するあまり、その方向の空を眺めて思いを馳せたという、なんとも胸にしみる一首ですが、こんな切ない恋歌を詠んだ人は一体誰でしょう。

 藤原俊成(1114~1204)。『新古今和歌集』の中心的な選者である藤原定家のお父さんです。その俊成の家集である『長秋詠藻』によると「はるごろ、しのぶる事ある女のもとにつかはしける」と言いますので、これは実際に、人目を忍びながら恋する女性のもとへ送った歌とみて間違いないでしょう。書いたところで止めたラブレターではなく、切手を貼ってポスト投函したとは、俊成さん、なかなかやりますな。

 人目を避ける事情もあり、また春の雨に阻まれて、こちらから牛車をころがして行くこともできない。せめて君のいる方角の雨空を眺めて思いを馳せるのだが、春霞が立ち込めて、そちらを見やることもかなわない。なんだか、昔のフォークソングにあった「都会では自殺する若者が増えている。君のところへ行かなくちゃと思うけど、傘がない」を思い出しますが、あのフォークの重苦しい切迫感とは違って、俊成の歌は「春雨」「霞」などが柔らかな語感で包んでいるところが救いです。

 ただ歌の組み立てとしては、語順通りの「君を思い、その方角の空を見たら、霞がかかっていた」よりも、「雨に煙る空に目をやったら、ふと君のことが思われた」のほうが自然な流れかもしれません。いずれにせよ、このような男女の情感描写は漢詩にはできないことで、これこそ和歌の独壇場です。私はもちろん、漢詩も和歌も両方好きです。

 藤原俊成は、平安末から鎌倉初期にかけての代表的歌人であるとともに、続く『新古今和歌集』の時代を担う若手歌人の育成にも貢献しました。それにしても、この時代に91歳の長寿を保った俊成は驚異的といってよいでしょう。

 世の中はといえば、保元・平治の両乱により、かつて藤原道長を頂点とした藤原氏の貴族政治が終焉します。朝廷が新興勢力である武家と結びつくなかで、まず台頭したのが平清盛を長とする平氏政権でした。その平家一門もこぞって貴族化し、一方で勢力を盛り返した源氏の軍勢に追われて、ついに壇の浦の藻屑と消えます(1185)。

 残る奥州藤原氏も源頼朝の追撃によって滅亡し、鎌倉を中心とする武家政権が成るわけですが、そうした時代の激動のなか、中古から中世へと移る日本文学は「無常観」という新たな視点を得ることになります。こうして、とりわけ和歌は、嵐の中に再び花を咲かせることになるのですが、その歌論において藤原俊成は「幽玄」という言葉を多用しています。以来、幽玄という、まことに奥深い芸術的理想は、詩歌のみならず、能や絵画、あるいは建築や造園など日本文化の全般に広がります。それを生み出したのがこの中世であることに、令和の私たちは、もっと注目してよいかと思います。

 表題の一首が俊成のいつごろの作か分かりませんが、おそらく若き日の一幕にあったのでしょう。この稿を書いている今日も、東京は朝からの雨です。

 街は今そぼ降る雨に濡れつつも清らに光るひと時ぞ見む  

(敏)

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