【党文化の解体】第2章(19)「進化論の局限性」

(3)進化論の局限性:進化のタイムテーブルに関するさまざまな疑問

 進化論の論理から言えば、人類は原始の水生動物から次第に両生類、爬虫類、哺乳類に進化し、さらに猿に進化したのち、現在の人類に進化してきたとしている。この過程には数億年が必要であった。生物学者たちは、生命が簡単なものから複雑なものに、低等のものから高等のものになるという学説に従って、進化のタイムテーブルを作成した。

 しかし、幾多の考古学者たちの発見は、進化論を支持する人々の論点を直接的に駁(ばく)した。この中には、世界各地で相次いで発見された古代の異なる時期における人類存在の直接的な証拠が含まれている。

 その一つとして、数万年から数億年前の人類の足跡や人体の骨格化石などは、進化のタイムテーブルに帰納することはできない。例えば、1997年11月6日の 『中国地質鉱産報』の報道では、中国雲南省富源県で三畳紀の岩石から4人の足跡が発見された。鑑定の結果、この岩石は2億3500万年前のものであることが分かった。また、1851年6月号の『Scientific American』に掲載された文章では、マサチューセッツ州ドーチェスターで爆破作業をしていた際、1個の金属製の花瓶が爆発で二つにちぎれて岩石から飛び出してきたことが報告されている。この二つに割れた部分を一つに繋ぎ合せてみると、一個の鐘型の花瓶になり、それは亜鉛と銀の合金でできたもので、地下15フィートから発見され、およそ10万年前のものだと推定された。

 

10万年の歴史がある金属の花瓶(写真=大紀元)

考古学の発見について言えば、進化論者たちの頭が痛くなる別の問題がある。それは、進化の過程における途中の類型が、厳格に言えばまったく見つかっていないということである。例えば、猿から人間に至る問題で、科学者たちは発見された一部の化石を、「古代猿」、「類人猿」、「猿人」、「ホモサピエンス」に分類したが、「類猿人」(猿に類する人)は見つけることができなかった。

 「類猿人」を探し出すことは、科学の「十大懸案」の一つになっている。かつて数度にわたって公表された「人類の始祖」は、すべて間もなく否定された。例えば、1892年に発見された人と猿の中間とされた「ジャワ原人」は、猿の頭蓋骨の一部とそれから40フィート離れたところで発見された一本の人間の下肢の骨を合わせたものだ。

 学術界では、「ジャワ原人」を否定したが、科学教育分野では相変らず宣伝していた。この状況は、1984年に「ジャワ原人」が新しく発見された猿人化石の「ルシ」に取り替えられるまで続いた。しかし、その後の鑑定で、「ルシ」もまた大部分の学者たちによって否定された。「ルシ」の化石は、既に絶滅した南方の古代猿で人類とは何の関係もないということが明らかになったのである。

 

もし、進化論が正しければ、中間型の化石が簡単に見つかるはずだが、なぜいまだに見つからないのであろうか。人々は 「化石の記録が完全ではないから」というダーウィンの解釈を繰り返しているが、よく考えてみれば、化石は一定の確率に従って形成されているはずだが、どうして中間型のものだけが漏れているのか。

 

進化過程は「古代猿」→「類人猿」→「猿人」→「類猿人」→「ホモサピエンス」とされているが、「類猿人」の存在根拠はいまだに発見されていない。(イラスト=大紀元)

観察、仮説、検証という「三段式の論理方法」は、今日でもやはり、実証科学者たちが自然規律と抽象科学の定理を発見するために依拠する原則である。ダーウィンの『種の起源』は、前の2段階だけを完成した。最後の「検証」に関しては、その後の人が1世紀あまりにわたって努力を続けてきたが、今になっても、納得できるような結果がまだ得られていない。それどころか、現在の各分野での科学の進展状況と進化論自体の局限性から見れば、進化論の最後の段階を完成させることは、ますます望めなくなっている。

 (続く)