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どこが違った 疫病に襲われた家 襲われなかった家

中国の民間伝説によると、疫病の発生は厄病神が天の意思により流行らせるもので、疫鬼が厄病神の指示を受け実行します。古い書物には、疫病が流行りだす前に、疫鬼や疫病神が前もって疫病を襲わせる家に印をつけにいったという物語が伝えられています。

宋の『睽車志』によると、宋代、震澤に住んでいた役人、孫俊民のことが書かれています。ある年の大晦日、孫俊民は家屋よりも背が高い男の夢を見ました。夢の中で男は片方の手に牛の角を持ち、もう片方の手に金槌を持って街で歩いていました。男がやがて彼の家までやってくると、家の戸の前で何か察したのか、すぐに持っていた牛の角を戸に釘で打ち付けました。この様子を見ていた孫俊民は男に何か話しました。すると男はそこを立ち去り、今度は向かいの姚氏の家の戸に角を打ち付けました。

孫俊民が目覚めた後、この夢が鮮明で奇妙だと感じましたが、彼には夢が何を意味するのか分かりませんでした。しかし次の春、姚氏家の者たちが疫病にかかり何人か亡くなったのです。その時やっと彼は自分が夢で見た男が疫鬼であり、ドアに釘付けられた角は疫病が襲う印だったことに気付きました。


また『履園叢話』の第十四巻では、清代の嘉慶十年(1805年)の立夏後に四川省で大きな疫病が発生したことが記録されています。この疫病の前にも、四川省で奇妙な事件が発生したようです。ここでは町じゅうの隅々に、多くの墨で線を引いた跡が現れました。

刺史の徐公鼎も、何が起こったのかを見るために街に出ました。すると役所庁舎から正門までの100歩弱の道に墨の線が引かれていました。それを見て徐公鼎が地元の人に事情を聞いてみると、この町の偏僻なところにも墨の跡があると言います。さらにおかしいのは、成都、龍安や嘉定でも同じ日に墨の線が現れたことでした。

3月上旬、簡州(現在の四川省簡陽)刺史、徐公鼎が公務のために嘉定(現在の上海嘉定区)を訪れた時、夜に彼は「行疫使者」と名乗る五人が東からやってきて成都に向かおうとしている夢を見ました。夢の中で彼はいつ帰ってくるのかと尋ねると、「旧正月の龍灯籠を見てから」と答えました。

公務が終わり徐公鼎が嘉定から戻ると、間もなく、成都で疫病が大爆発しました。ふとその奇妙な夢を思い出し、あの墨の線たちはもしかすると「行疫使者」が残した跡かもしれないと推測したのです。

清代の偉大な医学者である劉奎は、『松峰說疫』に、疫病が生じる原因と治療方法などを書きました。生涯知識が豊富で、無数の人々を救いました。彼の著書では薬以外にも多数の例を記載し、医学だけでなく疫病が生じる原因も述べられており、世間の人々に善と徳を重んずることが、薬も及ばない効果を達成させると呼びかけました。

松峰說疫』にこのような例が記載されています。太湖の近くのある村では、村人たちは基本的に家畜を屠って生計を立てていました。たった一人、沈文寶という男とその家族が皆、神を信じ殺生もせず、善事を行うことを好んでいました。時には捕まえた獲物も逃したりすることもあって、周りからは古臭いと笑われていました。

ある年、その村に疫鬼が来ると夢見た者が出てきて「疫鬼たちが旗を手に持って『善を修めている沈の家以外のすべての家に旗を挿せ』とお互い話をしていた」と言いました。

やがて村では疫病が流行りだし、半数以上の村人が亡くなりましたが、沈文寶一家は無事で誰も感染しなかったのです。

中国古代では疫病の発生は実は天に按配されているもので、その感染または死さえも偶然ではないと考えられてきたのです。


資料 『睽車志』第一巻、『松峰說疫·述古』第一巻、『履園叢話』第十四巻

(翻訳者・瑠璃)