「江戸の賑わい今もなお」 東京・湯島天神の白梅

コメント

古典落語の演目「富久(とみきゅう)」の話です。

正直者ですが、どこか間抜けで失敗ばかりしている幇間(ほうかん)の久蔵がいました。不運続きで暮らしにも困っていた久蔵が、たまたま一分の金を出して買った「富くじ」が、なんと一番富の大当たり。もらえる賞金は千両です。現代の宝くじで言えば「1等、5000万円」が当たる感覚でしょうか。

当たり札が、自分が買った「鶴の1888番」と聞いて大喜びしましたが、その富くじの札を隠しておいた神棚が、長屋もろとも火事で焼けてしまいます。がっくり肩を落として落胆する久蔵。ところが、顔なじみの鳶(とび)の頭が延焼する前に神棚を持ち出して、火災から救ってくれていました。

神棚のなかの当たり札が無事であったのを見て、今度は喜ぶというより、腰が抜けるほど安堵する久蔵でした。落語のオチは、神棚の大神宮様にお礼を述べて、「これでご近所のお祓いができます」。火事で焼けた災厄を「祓(はら)う」と「たまった借金が払える」の掛詞です。

芳しい香りを漂わせる湯島天神の白。(大紀元)

落語のなかで賑やかな富くじの抽選が行われた神社は、演じる噺家によっていくつかのパターンがありますが、五代目柳家小さん師匠は「湯島天神」にしています。

実際、江戸時代後期の文化・文政の頃から、湯島天神では、社殿の修復などの費用を賄うために「富くじ」の興行が盛んに行われました。ここは昔から、参詣以外の目的でも江戸っ子が賑わう特別な場所だったのです。

江戸の地名である「本郷の切通し」は、落語の語りのなかにも出てきますが、今でも切通坂(きりどおしざか)という坂道の名称として残っています。

その長い坂道を本郷から上野広小路へ下ってくる途中、右手の高台にある神社が湯島天満宮です。その正式な社名よりも、東京では「湯島の天神さま」と呼ばれ、現代に至るまで親しまれてきました。

爽やかに晴れた青空が、本殿の屋根に映えます。(大紀元)

湯島天神は、福岡県大宰府の太宰府天満宮と同じく、菅原道真公を祀った神社でもあるため、受験シーズンの前にはあふれるほどの合格祈願の絵馬がかかります。

また、道真公がこよなく愛した梅花の伝承に合わせて、こちら湯島天神の境内には約300本の梅が植えられおり、東京の梅の名所としても知られています。

大宰府天満宮にある有名な「飛び梅」は紅梅ですが、湯島天神の梅は約8割が白梅です。そのため「湯島の白梅(しらうめ)」は、慣用句であるとともに、馥郁とした梅花の香りをともなう雅語にもなっています。

明治40年(1907)から新聞連載が始まった泉鏡花の長編小説『婦系図』より、主人公の高瀬主税とお蔦(つた)の名場面を作者の鏡花自身が取り出して、戯曲『湯島の境内』に書き改めたのは大正3年(1914)でした。

その『湯島の境内』で、お蔦へのあふれる思いを断ち切るように別離を切り出した主税に向かい、お蔦はこんな名台詞を返します。「切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。私にゃ死ねと云ってください。蔦には枯れろ、とおっしゃいましな」。

それが新派の芝居になり、当代を代表する美男美女の俳優が演じる映画にもなったことから、「湯島の白梅」は日本人が愛する名作に欠かせない背景となったのです。

花の蜜を求めて、鮮やかな緑色のメジロがやってきました。(大紀元)

今年も、湯島の梅は美しく咲きました。

湯島天神を訪れたのは3月10日。うららかな春の日差しに、ちょうど満開の紅白梅が映え、芳しい梅の香を境内に漂わせています。花見客は多かったですが、平日のためか、ひどく混雑するほどではありません。

そこへ飛んできたのは、緑色の羽根が鮮やかなメジロの群れです。見た限り5~6羽はいたでしょうか。花の蜜を吸うために、繁る枝の間を軽やかに飛び回ります。その愛らしい姿に引き寄せられた多くの参拝客が、さかんにスマホを持ち上げて撮影していました。

境内には、おそらくは大学の卒業式を終えたばかりと思われる若い女性も何人か来ていました。晴れやかな表情と振り袖や袴姿の和装で、花に花を添えています。

梅園の樹間に、悲恋物語の主人公である「お蔦と主税」の面影は見えませんでしたが、この場所が、江戸から明治大正、そして令和の今もなお人々に愛される名所であることは十分にわかりました。

小嶋千聖キャスターが手にする絵馬は隷書の「希望」です。読者各位の希望となるよう奉納してきました。
鳥飼聡
鳥飼聡