「普く衆生を済度する」 玄奘三蔵の生涯(上)

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の僧侶である唐三蔵が日本では三蔵法師として知られています。三蔵法師は陳瑋(チン・イ)という俗名を持ち、現在の河南省偃師県の南部で生まれました。彼の生まれた年は隋文帝の西暦600年または602年、あるいは西暦596年とされ、王朝が唐になってからの664年に亡くなりました。彼が出家してからの戒名は玄奘であるため、現在でも玄奘三蔵と呼ばれています。

玄奘の父は儒教と経術の研究に専念していました。玄奘には全部で4人の兄弟がいました。二番目の兄は、幼いころから出家し、法名を長捷といい、洛陽の浄土寺に住んでいました。玄奘は四番目で、子供の頃から知性に恵まれ、並外れた外見を持ち、8歳の時には、父の薫陶を受け、熱心に勉強しました。

ある日、父親から「曾子避席」の話を聞いたとき、玄奘は突然立ち上がりました。
父親が理由を尋ねると、「曾子は師匠が教えてくれると聞いて、立ち上がった。今、父親が息子に経を解いている時、息子はのんびり座ってくつろぐことができますか」

父は息子の思いを理解し、手をたたいてほめそやしました。
また、幼い頃、玄奘は独特の資質を持ち、いたずらっ子とは付き合いがなく、邪悪な言葉やお世辞を聞かず、二番目の兄である長捷法師と仏典をよく勉強していました。

隋から唐の時代に中国では仏教が普及し、政府は僧侶に対して非常に厳格な制度を定めました。仏教を学びたい人は誰でも政府に採用され、試験に合格した人だけが僧侶として認められ「度僧」と呼ばれていました。隋煬帝の大業十年、政府は10人の僧侶が認定されたと発表しましたが、当時、玄奘は13歳であり、度僧の年齢に達しておらず、試験場への入場を許可されませんでした。

玄奘は落胆し、試験会場を歩き回り、帰りませんでした。主任審査官の大理卿(検非違使別当の唐名)の鄭善果は玄奘のことを聞き、玄奘に会うことにしました。

そして鄭善果は玄奘に「なぜ出家したいのか」と問いました。

すると玄奘は「如来の仏法を継承し、仏教を広め、普く衆生を済度する」と答えました。若いながらもしっかりした口調だったので、試験官を驚かせ、称賛され、彼は例外的に僧侶に選ばれました。感嘆した審査官は「経の誦唱(ずしょう)も速やかに成し遂げ、また彼の風骨は得難いものだ。もしこの子が得度したならば、必ず仏門における偉大な名僧となるだろう」と言ったそうです。

(翻訳・微宇)