【長編連載小説】 千代能比丘尼物語 第二回

建長寺

厳しい入山試験を経験する二人。その中で再びあの狂気の叫びをあげる千代能。だが二人は修練の行く末を左右する「時間」という存在に直面する。千代能は自らの過去を乗り越えられるのだろうか?

 

 宋という国は、すでになかった。蒙古から来た異なる民族に、もはや滅ぼされていたのだ。

 戦に次ぐ戦であったと聞き及ぶ。その風雲乱れる間隙を突いて、禅という新しい教えが、必死にこの日本国に伝えられたのかも知れぬ。そう、千代能が道々語った。

 建長寺の山門をくぐるのに、遮る者はいない。見渡すと、伽藍を守るように低い里山が新緑を連ねている。

 掃き清められた参道を歩き、静けさの中で玉砂利が軋んだ。千代能の足音は軽く、顕日のは重く。

 仏殿の手前を右手に折れてしばらく回廊を行くと、小さな門を再びくぐる。

 僧堂らしき藁葺きの伽藍が正面に見え、その手前左には知客寮と書かれた建物があった。千代能がためらうことなくその玄関に足を入れる。

 式台の一隅に腰を掛け、体をひねって一段高い床に両掌をそろえ、頭を下げて「頼みましょう」と、涼しい声をかけた。

 顕日もその姿勢を習う。

「どうれー」と割れ鐘のような声が奥からして、大男の取り次ぎ僧が現れ、気迫のこもった目で睨みつけられた。

「無学祖元様を訪ねてまいりました」

 千代能が背筋を凜と伸ばして、僧を見返す。

「して、御用向きは?」

「出家したく思います」

 僧はじっと、千代能を見下ろした。

「何故に出家を」

 千代能は黙っている。

 しばし間があり、その僧は、その黙示に満足したかのように頷いた。

「そちらは、京のお山のお方とお見受けいたすが、して、あなたの御用向きは?」

 と、顕日に尋ねた。

「悟りとは何か、迷いを振り切るために」

 真っ赤な嘘ではなかった。が、それは二つ目の理由だった。

 結ばれた翌朝、千代能が顕日など目の前にいないかのように態度を変え、狂ったように早歩くのを、顕日は仕方なく追いかけるまま、ここに来たにしか過ぎなかった。

 実のところ、何の覚悟も出来ていなかった。

 それを見透かされたように、

「喝!」

 頭の上で、僧の激しい爆発の声が起こった。一瞬身がすくんだほどであった。

「無学祖元禅師は多忙であられる。また、本坊は一杯でしてな、新参を受け入れる場所がござらぬ。お二人とも他を当たられよ」

 そういって、にべもなく袖を翻すと、廊下の床板を軋ませて奥へ引っ込んでしまった。

 千代能は身動ぎもせずに頭を下げたまま。

 顕日は横の千代能を伺い見て、小声でささやいた。

「千代能殿、場所がなければ致し方ない。日を改めてはどうかな」

「顕日殿、吾にとっては無学祖元様のいるこの寺に入れるか、入れないかが一大事。吾はここを動かぬ決意です。顕日殿、去りたければあなた様だけで」

 顕日はふいに頭を殴られたような気がした。もはや声も気迫も、この胸にかき抱いた昨夜の女ではなかった。お互い結ばれて、親しくなったはずだった。それなのにそれっきり千代能は口をきかず、じっと頭を下げている。顕日は立ち去るわけもいかず、かといってこのままじっとしているのもつらい。苛立ちだけが募った。

 顕日は頭を床にすり付けて、千代能を横目で窺いながらいつのまにか妄想に耽っていた。

 千代能は美しい。髪を下ろして尼僧になるのはもったいない。昨日は何度も抱き合ったのだ。戒をやぶってまで、この女を吾がものにしたのだ、と。

 庭の木立の影が足を伸ばし、薄暮が静かな禅寺を薄墨に染めてゆく。玄関の土間の冷たさが、つま先からじわりと染みこんで、節々がこらえきれぬほど悲鳴をあげはじめた頃。

 そこへ先の僧が再び現れ、

「ご投宿、されませい。ご案内いたそう」

 千代能が晴れやかな顔で立ち上がる。

 微笑みながらその僧が顕日の荷物を担いでくれ、小さな部屋に通された。千代能とは隣どうしである。

 僧が含みのある表情で、投宿帳と筆を差し出す。

「旦過寮(たんがりょう)でござる。お互い口をきかぬ事。東司(厠)の他は、勝手にこの部屋から出てはなりません。良いか?」

 態度も言葉も丁寧だが、取り付く島もなく二人をひと睨みして去ってゆく。必要な事以外は何も尋ねないし、後先の事も何も伝えようとはしない。顕日の知るお山とは、そこが著しく異なった。

 もっともお山では見ず知らずの者など門前払いだし、女人を寺に入れることなどはもっての外だったが。

 部屋に入り、荷物をほどいて一息ついた。部屋といっても灯りもなく体を伸ばして横になると、身動きも出来ない。寝具などももちろんなく、微かな黴の匂いが鼻につくだけである。とりあえず僧衆の修行の邪魔にならぬように、夜露をしのげということだ。

 そこで、否応なく顕日は壁に耳をあて、隣の気配を探った。何の気配もない。

 物心がつきはじめ、女人が気になるようになった頃、命を守るためにと母の発心で有無を言わさずに、出家させられた。考えてみれば皇族の端くれとして生まれたが、自分の意志で何かをしたことは一度もなかった。

 成り行き上ここまで来たが、顕日にとって、今、大事なのは、禅でも悟りでもなかった。千代能だけなのだ。ところが結果としてお山を捨て、禅宗に入ろうとしている。

 これも宿命、そう、たかをくくった。しかし嫌ならいつでもご出立をと言われたではないか。

 顕日は自分の意志を暗闇の中に探す。どこにも行くところはないのだ。この世で生きて行く術(すべ)など知らなかった。

 家を失った千代能と少しも違わない。

 暗い部屋の中で、うだうだと、役立たずな自分に思いを巡らしていると、道々聞いた無学禅師の話を思い起こしていた。

 神風が吹いたとはいえ、元の来襲に立ち向かい、北条時宗が日本の国を一つにまとめ上げて大難を小難にできたのは、強大な元に対して、若い時宗のともすれば怖じける心を、無学禅師が影で支えたからだという。

 その無学禅師はある日──井戸のつるべを操っているときに忽然(こつぜん)と大悟したと聞く。

 しばらくの後、台州の真如寺と言うところに住していたときに、元兵が大挙寺に乱入してきた。僧衆が皆逃げ出したにも関わらず、無学禅師は、ただ一人留まり、元兵が禅師の首筋に白刃を置いてもどこ吹く風だった。

 業を煮やしたその元兵が、首をはねようと、まさに大剣を振り上げた刹那、禅師はにっこりして申した。

──この首を切り落としても、春風を切るようなものでござる。

 兵はその不動の心境を敬し、畏まって、何もせずに去ったそうだ。

 それはまさしく生死を離れた者の心境。

 執権時宗もその胆力を望んで、無学禅師を招聘したのだった。

 千代能の姉が時宗の妻であり、その姉から聞いた真相である。元に滅ぼされた宋の国の僧、無学が日本を支えたのかも知れぬ。

 部屋の中で暗闇を睨んでいると、まもなくあの僧がやってきて、案内されるままに広間に行き着いた。百を超える僧衆が集まり、その各々の前にお膳が並んでいた。

 末席に誘われて座ると、布巾に椀と箸が乗っている。役務の僧がそこに雑炊を丁寧に注ぐと、夕餉の匂いに顕日の腹も激しく鳴った。

 中央には細い体つきの無学老師が泰然と座っている。

 あの方が仏祖と同じ悟りを開いた方だとするならば、顕日は今や、仏陀の目の前に居ることになる。そう思うと、いつの間にか姿勢を正していた。

 薬膳の間は無言の行と教えられた。誰も一言も発しない。

 千代能が泣きそうな目で老師を見つめている。

 老師も穏やかに眼差しを返している。

 その中で、顕日の汁をすする些細な音も耳障りだ。

 良く調御された僧衆の振る舞いに、顕日は他の僧の作法を真似るしかなかった。

 腹の虫も大人しくなりほっとしていると、これも作法なのだろう、老師が何も言わずに静かに退出された。後ろ髪を引かれるような表情で、千代能は見送るしかなかった。

 すると茶が振る舞われて、無言戒が解かれた。

 正面に座っていた案内の僧が顔を緩めた。

「老師のお計らいで、普通ならば五日の庭(にわ)詰(つ)めを課すところを、お二人の場合、一日に縮められたのでござる」

 玄関先のあれを五日間もしたら、根を上げていたかも知れぬ。

「庭詰めは短くされ申したが、これからの旦過詰めは、七日が期限。食事と厠へ行く意外はあの部屋を出てはなりませぬぞ。私語も一切謹んで下され。壁に向かって、自分の性根をしかと見届けるのでござる。嫌ならいつでもご出立くだされ」

 顕日は顔から血の気が引くのが分かった。あの灯りもない昼なお暗い部屋で、七日の蟄居である。千代能と口もきけずにであった。

 

 池の鯉が跳ねる音さえも、壁の隙間から聞こえるほどの静寂、夜は粛々と更けてゆく。

 巷の喧噪に比べれば、京のお山も静かだが、どこかで護摩行を執り行う物音が漏れ聞こえ、経を覚える読経も深夜まで途絶えることはなかった。しかしここはまるで、人が全くいないかのようなのだ。

 生温かい風が隙間からか忍び込み、暗闇の中で微かに頬を撫でてゆく。

 壁に耳を当て、隣の千代能の気配を伺う。座禅を組んでいるのか、寝てしまったのか。指先で軽く壁を叩く。ささやかな音もこの静けさの中では木魚を叩くように響く。冷や汗をかきながら顕日は少しずつ力を込めた。

 返事はない。

 池の鯉がまた跳ねた。

 答えてくれぬ千代能に腹が立つ。

 あの時強引に千代能と夫婦になれば良かった──そう思えば口の中が苦くなる。

 自らを省みれば、千代能を連れてどこで何をして糊口をしのぐのか、それに答えを出せぬ顕日だ。

 ふがいなさ、その事を重々承知はしていたものの、どのような知恵も浮かばず、千代能をただ追いかけて来たに過ぎぬ。あまりにも稚拙、あまりにも軽薄と、顔が歪むのが分った。

 お山にも戻れぬし、宮に戻れば骨肉合い、喰み殺されるやも知れぬ。その境遇はどこやらが似ている。行き場所など顕日にもどこにもなかった。

 顕日は考えるのを止めて、見よう見まねで、座を組んだ。

 夜風が時折、辺りの松葉を震わせた。

 やがて、闇が濡れたように感じられ、手足が痺れ切って、石にでもなったようだ。すでに体は我が物ではない別の物。

──自分にできることはないのか? このままこの寺で禅僧となるのか? 千代能が尼僧になるのを黙って、見守って行くのか?

 たかが狂い女にうつつをぬかす愚か者、世間知らずの軟弱者と、そう自分を強く揶揄してみるのだが、それは長く続くでもなく、いつとはなく千代能を思い起こしていた。

 川の潺が聞こえるような気がして、暗闇の中で壁を睨めば、木目が冥府への入り口のように、暗い洞(ほら)の口を開けていた。

 さめざめと、千代能の忍び泣く声が漏れ聞こえた。松籟の音に紛れて、千代能が泣いている。

 耐えきれないのか、時折声が波打った。

 その波がにわかに大波となり、辺りを切り裂く叫びとなった。そして余韻が長く尾を引く。

 にも関わらず、寺は静まりかえったまま、微動だにせず無言のまま。山の草木の代わりに、ここでは老師と夜座を組む僧達が、厭離の心でそれを受け流していた。

 顕日は雷に打たれたように身を縮めて、暗い木目を睨む。この壁の向こうで千代能が泣き叫んでいる。

 風音が強く騒ぎ、突如、山が身動いだ。竹が騒然と打ち鳴って、顕日は寒気を覚えた。

 その木目の中に必死な思いで、花一輪を思い描こうとした。

 二晩も三晩も、忍び泣きが漏れ聞こえ、やがて叫びが壁を震わせた。誰もそれを咎める者はいない。心の闇をはき出させるかのごとく、毎夜、千代能は泣き叫ぶ。

 その度に顕日は金縛りにあったように身を固くして、隣の気配が静かになるまで、まるでそれが、顕日の修行であるかのように耐え忍んだ。

 千代能が狂気と闘っている──そう思うと、全身の毛穴が開いて、鳥肌が立つ。眠気も惰気も吹っ飛んだ。

 女としての千代能が、顕日の中で変化してゆく。

 愛おしさは変わらない。しかし今までの千代能に抱いていた気持ちが、初めて味わう何か、別の想いに変わってゆく。

 旦過部屋には明り取りの小さな窓すらもない。かろうじて戸板の隙間から漏れる光が昼夜を分かつ。

 そして無言の行である。自らへのつぶやきさえも禁じられていた。顕日の神経が狂ったとしてもおかしくはなかった。

 夜になると感覚が研ぎ澄まされて、五感が体の外側にひときわ広がってゆく。奇妙な感じに息を呑む。池の中の鯉が水の中を泳ぐ気配さえ分かるような気がする。むずむずと、自分の皮膚が水面に触っているような、それがさらに鱗(うろこ)にも触っているような。

 気のせいだとは分かっていても、これが隣にいる千代能にまで及んでいった。千代能の哀しい吐息を耳元で感じ、腑をよじるように身をくねらせて、髪の毛をかきむしり、やがて腹の底から迸る千代能の叫びを内側から聞いた。顕日も床に転がり身を畳み、その痛みを分かつように膝を抱えた。

 幾夜も幾夜も、時が早く過ぎるのを望むと、時は意地悪く歩みを緩めた。けれどもそれに慣れて行く。

 そのうち、時は、その体をなくし、暗闇の中では自分しか、自分の息づかいしか聞こえなくなる。自らが考えていることも、内実がないような気さえする。

 いや、自らさえも暗闇の一部で、意味が抜け落ちていた。時が意味を成さないとすれば、何もかも意味がない。己の執着さえもが、時が消えれば掴みどころを失い、いつしか消えていた。

 体に染みこんでいた道理とはかけ離れた感覚に、顕日は逆らいようがなかったのだ。

 日が昇り、光りがある間に厠に行けば、あるいは食を取りに僧堂に赴けば、そこには何もなくなった後の、自らの抜け殻、躰という顕日の抜け殻が、からくりのように動いていた。それに気づいて愕然と天を仰ぐのだ。

 そしてその都度、時を失った自らの抜け殻が、無言のまま千代能を垣間見る。清楚な横顔であり、うつむいて影になった顔であり、毅然と廊下を歩む華奢な後ろ姿である。

 その千代能もまた、抜け殻になっているのではないか、千代能にとっても、必ずや時が意味を成さなくなっていると。そうであれば……。顕日は、小さな灯が心に点るのを感じた。

 六日目の夜、千代能の忍び泣きも辺りを震わす叫びも、ついぞ起こりはしなかった。顕日はむしろ落ち着かず、居ても立っても居られなくなり、気がせいた。

 立ち上がり、数歩歩き、また座る。いつ果てるとも知れぬそれを繰り返した。他に何が出来ようか? 途方にくれている自分がそうささやいた。

──この檻には自ら飛び込んだのだ。嫌ならいつでもご出立をと告げられたではないか。縛るのは自分、縛られるのも自分。この顕日という閉ざされた檻から、そこから出るための修行。そう思えば狂気も正気もその境もありはしない。あるのは自分を縛る自分ではないか。

──千代能もきっとそれに気づいている。

 下腹に力を込めて顕日はそう強く想う。そう想うと、気持ちがかすかに安らいだ。

 時を知らせる木版が何度も何度も叩かれた。案内の僧がやってきて七夜目が過ぎた事を知った。

 過ぎてみれば、おそらく歳を重ねて、自らの生を振り返れば、斯くのごとしか。すなわち時はないかのごとし。だとすれば過去も未来もないのかも知れぬ。顕日の肩から力が抜け、長い息がゆっくり漏れた。

 明け初めたばかりの朝の冷気が、七日間の旦過詰め明けに相応しかった。各々、支度が整い、隣には千代能がいて、まごう事なき千代能ではあったが、人が変わったような鮮やか顔に、顕日は驚きを覚えていた。

 その顔が顕日を見つめている。無言戒が解かれた刹那、千代能が初めて得も言われぬ笑顔を見せ、顕日は堰を切って話しかけた。

「千代能殿、よくぞがんばられましたな」

 千代能が恥ずかしそうに庭を見遣る。竹垣前の沈丁花が切ない香りを座敷に運ぶ。その空気を吸い込んだ千代能の胸が膨らみ、一呼吸置いて、ゆっくりすぼんだ。

「時が消えてしもうたのです。顕日殿」

 顕日は思わず腰を浮かせた。

「初めのうちは自分を責めるばかりで苦しくて、逃げ出す事ばかりを考えておりましたけれど、程なくして、なんとも面妖な事で……、暗闇の中、部屋の壁がないにも等しいと、部屋の外の何もかもが、肌をすり合わせられるほど、身近に感じられたのです」

 やはり千代能も同じ事を感じていたのだ。

「するとどうしたことか、時そのものが消え失せておりました。時が消えると、やおら、過去もなかったのです」

 

 子供の頃に泣きべそをかいた時のように、顕日は自分の顔が緩んでゆくのが分かった。

──時がなければ過去もなし。

 その言葉が心の中に湧き上がり、顕日の胸奥に、大きな青空が広がった。

 

 

無学祖元(むがく そげん)禅師との相見

         

千代能は過去を吹き飛ばされ、懸日は京都で学んだ十年をコケにされる。    

顕日は、自分が一瞬消し飛んだように感じた。

 

 その事を伝えようとしたのだが、感慨に耽る間もなく、案内の僧に支度を急かされた。

 いよいよ無学祖元禅師との対面なのだ。

 千代能が呼吸を静かに整える。

 僧堂から別棟に案内され、老師部屋の前で、廊下に留め置かれたまま、先に案内の僧が開かれた障子の中に入った。

 綺麗に掃除された庭を眺めていると、まずはそわそわしていた顕日が呼ばれた。

 真新しい足袋で敷居をまたぐ。心を静めるようなお香が体を重くする。開かれた襖が右手にあり、その奥の白花が生けられた床の間の前で、痩せぎすだが大柄の無学禅師が座を組んでいた。切れ長の大きな眼が睨むでもなく探るでもなく、顕日の全身を照らす。

 顕日は膝を折り、畳みに額を当てて拝した。

 この人が仏陀と同じ悟りを開いている、今やその人の前にいるのだ。そう思うと、体がぎこちなくなるのが分かった。

 すると、衣擦れの音がするや否や、素早い足裁きの音が続き、顕日の肩がポンと叩かれた。意表を突かれて顔を上げれば、目の前に無学禅師が片膝を付いていた。

「顕日殿、そう畏まらずに。旦過詰め明けでござる。おめでとう」

 にわかに言葉を失い、力のある低い声に頷きを返すのが精一杯。そんな顕日に頓着するでもなく、無学禅師はまた顕日の肩をその大きな掌で気安く叩く。

「顕日殿は、京のお山で密を学ばれたのでござろう?」

「はい。しかし修行とは名ばかりでして、経典を読みふけるばかりでございました」

 

「ふむ。読まないよりは読んだ方が良いかも知れぬが、読んだとしても何もならぬの」

「無駄でございましょうか?」

「そうだのう。悟りを開けなければ全ては無駄。そうではござらぬか? 悟りを開くために仏法があるのでござれば」

「しかし密も仏祖の尊い教え。それが書かれた経典ではありませぬか?」

「喝!」

 と、障子が震える程の一声が響いた。無知無明を吹き払うという禅の一声。顕日は訳もなく狼狽えた。

「七日七晩の旦過詰めで、何をその身に染みこませたのか? 学問にも、経典にも、文字にも仏は宿らぬ。宿り主は誰か? そこを公案されよ!」

 顕日は、自分が一瞬消し飛んだように感じた。

「経典には翻訳の間違いがつきまとうてござる。おそらく、仏祖が語った言葉とは、真逆の事が書かれてあることもござろう」

──なんということを! ありがたきお経に、嘘間違いが書かれていると!

「仏の宿り主は誰か? という公案の答えを、次の相見の日までに見出しなされ」

 顕日は開いた口がふさがらなかった。禅師の切れ長の目が一瞬大きくなり、顕日の深奥を探るように睨んだ。案内の僧が何度も顕日の袖を引く。顕日は師に対するお辞儀も忘れて、引きずられるように千代能の待つ廊下に連れ出され、そこにへたり込んだ。

──経典が嘘偽り? それでは、お山での十年はいったい何だったのか!

 顕日がこれまで拠り所にしてきた土台そのものが、砂塔のように崩れ去った。

 付き添いの僧が、隣の千代能を促す声で我に帰った。背筋の伸びた小柄な後ろ姿が、敷居をまたいだ所だった。横顔が垣間見えて、引き締まった表情に、微かに紅がさしていた。

 千代能の透き通った声が聞こえた。

「無学老師、懐かしゅうございます」

「喝!」

 雷が再び落ちた。

 何も含まぬ空の一撃が、千代能を襲った。

 顕日の頭も、またもや一瞬真っ白になった。

「過去も未来もない。どこから来たのでもなく、どこへ行くわけでもござらぬ。娑婆の世界の出来事は、皆あなたの心が奏でた幻だった。千代能殿、そうであろう?」

 

 無学老師の低い声が、障子越しに聞こえた途端、顕日の全身を鳥肌が襲った。千代能の過去が、今この刹那、全て吹き飛ばされたように思ったのだ。

 沈黙が流れ、やがて案内の僧の声がした。

「これこれ、千代能殿、老師の膝で泣き崩れるなど──」

「良い良い、しばし泣かせるが良い」

 老師の答えの狭間に、千代能の忍び泣く声。だがそれは心温かくなる湿り気を帯びていた。千代能の背を老師が優しく撫でている姿さえもが、思い浮かんだ。千代能はきっと、長い間流離ったあげく、やっと家に帰り着いたような安らぎを覚えているのではないか。

 やがて老師の諭すような声が響いた。

「来るでもなく、行くでもない人とは誰か? これを公案になされよ」

 千代能にも公案が与えられた。

 老師の低い声が詠うように響く。

 

「この公案の答えを、次の相見の日までに導き出しなされ。その答えを見出したとき、本当の千代能が証されることになり申そう」

 顕日は力の抜けた足を引きずるように、千代能は腫れたた瞼を重くして、最初の日に応接してくれた僧の部屋に案内された。

「ご苦労様でござった。相見も無事に終わりましたな。七日七晩の旦過詰明けでござれば、本日、これ以上のお勤めはござらぬ。ゆっくりと養生されたがよろしい。まあ、茶でも一服進ぜよう」

 その僧は大柄な体を小さく丸めて丁寧に茶を立てる。丁寧な所作からほのぼのとした、愛らしさのようなものが浮かんで、大柄な体との不釣り合いが可笑しい。

 僧は名を無尽黎明と名乗った。以前の取り付く島もない態度とは別人のように和らいだ顔だ。師の名を一字賜っているので、この建長寺では高僧なのであろうが、ここでの生活規則や、時間割、お勤めなどの注意を、気さくに語ってくれる。

 京のお山は、階層や仕来りに煩かった。だから無尽の、その闊達ですがすがしい雰囲気に、自分の気持ちが洗われているような思いがした。あるいは、長かった旦過詰のせいで、単に人恋しいせいだろうか。

 そう考えていると、

「お二人とも、公案を頂いて、目が点になっておりますぞ」

 と、無尽が大きな目を細めて無邪気に笑った。

 千代能が膝を前ににじり寄せ、頷きなら爛々と無尽を見つめた。

 顕日は腕を組み、唸りながら宙を睨む。

「分けが分らぬ問いに、意味がありましょうか?」

 と、顕日が腕組みしたまま問うた。

「分けが分らぬと思っている、その顕日殿のその心、それを掴まえるのでござる」

 顕日ははぐらかされたように感じて、「しかし……」と口を開いたのだが、顕日の横で小さく頷いている千代能に気づいた。

 

 無尽が楽しそうに千代能を見つめている。

 二人から取り残されたような気がして、顕日がまた尋ねようと、口を開いたのだが、無尽はもうすでに他に心を飛ばしていた。ふいに庭を見つめながら立ち上がり、

「ま、顕日殿、ゆるり、心を掴まえてみなされ」

 そういうと、袈裟の袖をそよがせて出て行ってしまった。

 口を開けたまま、しばし唖然としていたが、ついに千代能と二人っきりになれたことに気づいた。言葉を交わせる時がやっときたのだった。

 千代能が泣きはらした目で、先に口を開いた。

「顕日殿、後悔はありませぬか?」

 眼差しも声も愛らしい。何もかも吹っ切れたような表情に、顕日の心も潤んだ。

「なんの、なんの。老師との相見で、過去に学んだ経典一切を、頭から否定されまして、冷や汗が出るほど慌てはしましたが、考えてみれば、悟りは過去に関わらぬと、示唆されたようで。それはやはり、なるほどなのでござる」

「聞こえました。仏の宿り主は誰か?」

「無言の、一輪の花でも伝授されるのかと期待したのでござるが、思っても見なかった『喝』で、過去が全て吹き飛ばされたに思えましてな。そのうえ、解けそうもない公案にたじろぐばかりでござる」

 千代能の華奢な顔が少しだけうつむき、やがて顕日に視線が移る。

「吾が公案は、来るでもなく行くでもない人とは誰か?」

 顕日は眉根を寄せて、渋い顔を作った。

「分けの分らぬ公案に、答えがしっかり出せたときに、悟ることができるのでござろうか?」

 

「法を嗣がれた方は皆、仏祖よりずっと、このように面々と受け継がれて来たそうです」

「どうせ出家した身、なにがなんでも悟らなければなりませんな」

 顕日の気負いが可笑しいのか、千代能が穏やかに目尻を細めた。

「頼もしいこと、顕日殿に負けないように、千代能も生まれ変わったつもりでがんばりまする。とはいえ、この公案は難しい」

「で、ござるな。皆目見当もつきませぬ」

 顕日は、千代能の物言いがすっかり変わったことに気づいていた。きっと千代能は狂気に打ち勝ったに違いないと思うと、清清しい空気に胸が膨らんだ。

(続く)