ローマ帝国の迫害と疫病

人々の徳が廃れた時、陰陽が乱れ、万物が凋落します。キリスト教徒を迫害したローマ帝国は、何度も疫病に見舞われました。

暴君ネロ

キリスト教徒への迫害は、皇帝ネロ(在位54-68)の時代に始まりました。

ネロは64年にローマで起きた大火の罪をキリスト教徒に負わせ、人々の憎悪をあおりました。一説によれば、自分好みの街を再建するために、ネロ自身が放火を指示したといわれています。

キリスト教徒への迫害は、残虐を極めました。彼らを円形闘技場に集め、野生動物の皮を被せて猛獣の餌食としました。また、夜には彼らを生きたまま火あぶりにし、街を照らす灯かりとしました。

その年の秋、疫病が発生し、およそ3万人が亡くなりました。3年後、ネロに対する暴動が起き、彼はローマから逃亡して自殺しました。

「キリスト教殉教者たちの最後の祈り」(ジャン=レオン・ジェローム/パブリック・ドメイン)

アントニヌスの疫病

161年に即位したマルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位161-180)は、キリスト教徒への迫害を更に強化しました。

歴史学者は、「キリスト教徒は野獣の餌にされ、拷問を受け、監禁された。キリスト教徒に仕えていた奴隷たちは、彼らの主人が近親相姦や食人儀式を行っていると証言した」と記録しています。誹謗中傷の中で、キリスト教徒たちは弾圧されました。

166年、疫病が発生しました。この病にかかると、「激しい嘔吐で内臓が震え、血を吐き、目から火が出る。身体は衰弱し、足はふらつき、耳が遠くなり、盲目になる」と歴史家が記録しています。

当時、ローマでは毎日およそ2000人が疫病で亡くなり、一部の地域では3分の1の人口が消失しました。

キプリアンの疫病

キプリアンの疫病は250年に始まり、20年間続きました。ピーク時には一日5000人が亡くなり、ローマ帝国に打撃を与えました。疫病の正体は、天然痘、インフルエンザ、あるいはウィルス性出血熱(例:エボラ)のような伝染病だったと言われています。

疫病は、トラヤヌス・デキウス(在位249-251)が皇帝に即位して1年後に発生しました。彼は全国民に、ローマの神々に犠牲を捧げ、崇拝せよという勅令を出しました。儀式は行政官の前で行うこと、また供犠証明書の発行などが義務づけられました。偶像崇拝を拒否した多くのキリスト教徒が処刑されました。

251年、デキウスは即位後2年で戦死しました。19年後、当時のローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスも疫病で亡くなりました。

ディオクレティアヌスの迫害

ディオクレティアヌス(在位284-303)は初期の頃、キリスト教徒に対して寛大な政策をとりました。しかし、彼は義理の息子ガレリウスにそそのかされ、迫害を始めました。教会を破壊し、聖書を焼き、財産を没収しました。これは、ローマ帝国時代において最も大規模な迫害でした。

その後、皇帝に即位したガレリウスは迫害を継続しました。

ガレリウスは後に、ぞっとするような難病にかかりました。「身体はひどく腫れあがり、性器に穴があき、そこから大量のウジがわいている。肉が腐り、吐き気のする悪臭が立ち込めた。最も忌まわしい病気である」と歴史家が記録しています。

自身の過ちを悔いたガレリウスは311年4月、迫害の停止を宣言しました。

313年、コンスタンティヌス1世のころ、ミラノ勅令が発布され、ローマ帝国における信教の自由が認められることになりました。この時点で、実に300年におよぶキリスト教への迫害が終わりました。

正教に対する迫害は、とてつもない罪業を造ります。キリスト教徒を迫害したローマ帝国は、疫病で600万人の命を失いました。現在、中国で蔓延している疫病は、法輪功迫害に対する報いなのかもしれません。

参考:明慧ネット

(大紀元日本ウェブ編集部)